以下、「生命の実相第7巻」より。
「ひとの生命を礼拝する」。この礼拝主義は他人の悪を心に記憶せず、言葉にも表現しないで相手の本質の神を拝むのである。キリストの言ったところの「なんじの敵を愛せよ」という信条に一致する。
諸君よ、今日かぎり、他人の悪にしばられないところの高貴な心を自分のうちに取り戻そう。他人が悪を犯したからって、自分がなぜ不幸にも、憎しみの歯車で噛みくだかれなければならないのであろう。
あなたの心は他人の悪の餌食となって食われてしまわねばならないような一片の肉塊ではないのである。あなたの心は何物にもしばられないで、それ自身で幸福になりうるということを知らねばならぬ。
自分の心の高貴を取りもどせよ。自由と独立を奪回せよ。相手が下劣なことをすると思うならば、下劣な者と対等になって争うことの愚を知らねばならぬ。相手が愚劣になったとき、自分もまた、高貴の階段から降りていって愚劣と肩を並ばねばならぬということはないのである。
しかし、自分の高貴を自覚し、他人の下劣に伍せぬために ―― 言い換えればみずからのみを潔しとし、他を傲然と見下ろすために許しの王座に上るものは、なお本当には自己の生命を伸び伸びと生かすことができないのである。
かかる生き方は、自己が高く上がれば上がるほど、他がいっそう低く見える。彼は自己の心のうちに他の醜さを常にえがいて暮さねばならぬ。自己が高くあがればあがるほど、自己の心のうちに他に対する軽蔑や非難の声でみたさねばならぬ。彼はいつの間にか放下していたと思っていた人生のカスを自分のうちに充満せしめることになる。
礼拝主義はそんなたんなる寛大主義ではない。また自己のみが高くあがる独善主義でもない。それはほかの見せかけの他人の悪にとらわれない、その人の表面にどんな悪があらわれていようとも、その人の本質を見るのである。その人の本質にある神を見るのである。
どんなに人々が悪を犯そうとも、その人の本質は神の子であって汚れていない。どんなに紙幣が手垢で汚れていようとも、それは金貨に値する内在価値をもっている。諸君は千円札が汚れているからとてその内在価値を疑うか。しからば諸君は人間がどんなに罪に汚れているからとて、その内在価値 ―― 神の子としての価値を疑ってはならない。ただ、万人のうちに、ただ神の子の存在のみを見る。ここにおいてわれわれの人生観は全然転回せざるをえない。暗い人生観は明るい人生観によって代わられる。われらはおのずからすべての同胞を太陽の光の中で見ることになる。
これは実に幸福の秘訣である。キリストは「なんじの敵を愛せよ」と言ったが、もうこのとき諸君の世界では敵が存在しないのである。
さて、どうしたらそんな境地に達しうるか。それを自分は語らねばならぬ。
他(ひと)が現に目の前で自分に対しておもしろくないことをしているのに、どうしてその人の内にある神をわれらは拝みうる境地に達しうるか。
それにはまず心的練習(メンタルトレーニング)を必要とするのである。げんに悲しい事件があるのに鏡の前でできるだけ愉快な顔をし、これによって悲しみを征服して、ついに自分のヒステリーを根治した婦人のように、諸君は相手の美点をできるだけ心に描くように練習しなくてはならぬ。
それは必ず練習によって到達しうるのである。なぜなら見せかけの悪は低迷する雲のように仮相の存在であって、どんな曇った日にも本当は青空がその奥に存在するからである。
相手が自分にたとい悪意を抱いていると信ずべき根拠があるにしても、相手の好意を見るようにするのである。相手の愛を自分の心の中に想像する。そして強く強く自分の心のうちに印象する。
もし現在あなたの憎んでいる人があるならば、毎朝、毎晩、五分間ずつ正座して瞑想を行い、精神が「神とわれとが一体である」との統一してきたとき自分の心に対して次のごとく黙念するか、耳にかすかにきこえるほどの声で自己暗示するがよいのである。
自分は神の子である。
自分の心には愛が充ち満ちている。
自分は彼を憎まない。
自分は彼を愛している。
愛は愛を招(よ)ぶ。
だから、彼もまた自分を愛せざるをえなくなるのである。
自分は彼に宿る神性を
こうして毎日拝むのである。
かく密室において言葉で心に明瞭に語りながら実際に合掌して、憎んでいる相手を実際に愛していると真に強く想像し、実際愛しうるようになるまでこの行持を続けよ。
諸君は第一実際に自分が善くなってくるのを感ずるであろう。これが言葉の創造力である。諸君の心自体が変わってくるに従って、陰(かげ)をむけていた相手が自分に日向を向けてくるのを覚えるであろう。
黒住教祖の歌「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を映してや見ん」というのは実に真理を穿っている。実際相手が自分を憎んでいるように見えたのは、自分が相手を咎める心をもっていたからで、相手は自分の心の映像(かげ)であったことがわかってくるであろう。
境遇を征服するとか、環境を征服するとか言うけれども、実際は自己の心の賊を征服することだったことが解ってくるであろう。
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