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2016年02月09日16:38

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2月9日・生命の言葉「感恩」



人間の深切にも物施と法施とがある。物を与えることも時には必要であるが、あまり物のみを与えすぎるとかえって依頼心を起こさせ、貰うことが権利のような感恩のない状態にまで相手の心を荒ませることがある。

物を与えるならば、心もちを添えて贈らなければならぬ。紙に包み、水引を掛けるのは心もちを添える方法の一つである。人間は心もちによって生かされているのである。機械的な「与え」の前には感恩の心は起こるものではない。与える側からいうならば、物を贈るに相手に感恩の心を起こさせようと思ってするのは不純ではあるが、相手の心に依頼心に満ちたり、忘恩的な荒んだ心にまでならせないためには機械的な与え方をしてはならない。

勤務時間以上に働きをサービスする社員に、上役が感謝して夜食をおごったりしてくれる場合には、いかにも上役の好意が身に沁みて感謝されるが、規則によって夜勤手当というものを定めて、一定時間の夜勤をする者には一定の夜勤料を支払うことに機械的に定めてしまうならば、もう誰も夜勤料をありがたく思わなくなるものである。それどころか、時としては夜勤料が少ないといって零すようにさえなりがちである。与える悦びがなくなって、奪い足りないという不平に代わるのである。生活に困っている失業者に仕事を紹介してやったら、その当座は生命を救けてもらったように感謝するが、毎月月給を貰うということが機械的に度重なってくるならば、もうぼつぼつ月給に不足を零しがちである。

感恩の心は機械的になるとしだいに薄れてくるのである。子供の愛情に養われる老人は幸福であるが、社会保障制度で養老院に養われる老人には前者ほどの喜びはない。われわれは毎日空気を吸っているが、機械的に空気を供給されているがゆえにありがた味を感じない。われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、太陽は機械的に毎朝地平線から顔を出すから太陽のありがた味をさほど感じない。

しかし、これでよいだろうか。目覚めて立て! わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生きているのである。

ありがたさは物の分量にあるのではなくて、心の目ざめにある。心の目ざめている人を悟っていると言う。一かど悟っていると自負している人が常に不平を唱えているのは何を悟っているのか、訊いてみたい。

・・・「生命の実相第37巻幸福編上」より。



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