【現代語訳】
だいたい、人と話をする場合には、ぜひ相手をしてその長所を話させるべきである。そうすれば、自分にとって益するところがある。
【原文】
凡そ人と語るには、須らく渠(かれ)をして其の長ずる所を説かしむべし。我れに於いて益有り。 (言志録62)
【解説1】
近頃、人間関係ということがしきりにいわれるが、人と人との間は主として「人と語る」ことによって行なわれる、その人と語る場合、相手に長ずる所を説かせしめよ、と一斉はいうのである。
これはすばらしい発見である。「話し上手より聞き上手」という諺があるが、「相手のずる所を説かしめて」これを聞くということ、というよりも、聞き上手で相手に長ずる所を説かしめるようにするということは、自分の長ずる所だけをペラペラとしゃべりまくるよりは、自分のためになるものだ、ということである。
それは相手の長ずる所を聞いて、自分の知見を広めるというだけではない。相手との人間関係をもよくするところになる。誰でも、自分の長ずる所を本気で聞かれるということは、悪い気持ちがしないものだからである。
しかし相手にその長ずる所を説かしめるということは、実は容易なことではない。かつて「耕心」誌の「しずく」で、「話し合い」より「聞き合い」と記したのに対して、早速名古屋の力富氏から次の所感を寄せられた。
「“話し合い”も“聞き合い”も自他を超越し、自他を包摂する普遍的立場に到ろうとする努力たることに相違ありませんが、前者は自己肯定(有我)から出発し、後者は自己否定(無我)から出発しようとする点において、微妙なニュアンスがあり、このニュアンスはやがて大きな差異を生む契機となるべきこと、明白であります。先生が今改めて“話し合い”から“聞き合い”への提唱をされる所以でございましょう。有難く敬読させていただあきました。
犬養首相がやられた時に“話せば分かる”といったのを批評して、「だからまだいけない。なぜ“聞こう!”といわなかったか」といった坊さんがありました。いまだに印象が残っています。ふと思い出した次第であります。
仏典に「如是我聞」――この如く我れ聞く――とあるが、よく聞き合って、よきもの、よりよきもの、より高いものを生み出して行くところにこそ、真に民主的弁証法的進化が実現されるものでありましょう」と。この章を味読するよき参考となるであろう。
・・・・菅原兵治「佐藤一斉の言葉」より。
【解説2】
人と語り合う場合には、相手に長所を語ってもらうべきであり、それによって学ぶこともできるのだ、と一斎先生は言います。誰にでも長所と短所があります。
森信三先生は、『修身教授録』の中で以下のように述べられています。
「そもそも人間の長所と短所とを並べますと、これは共に相殺してしまって、つまりお互いに帳消しになって、結局プラスマイナスゼロになるわけです。そしてその場合、もし欠点の方が強ければ、マイナスが残るのはもちろんのこと、仮に長所の方が強い場合でも、結局は相殺となって、残ったプラスは微々たるものにすぎないでしょう。」
「ですからわれわれが、相手から自分の心の養分を真に吸収しようとする場合には、かような傍観的では、ほとんど何も得られるものではないのです。すべて真に自分の身につけるには、一時は相手の長所に没入して、全力を挙げてこれを吸収するのでなければ、できないことです。」
つまり、人の長所と短所は合算するのではなく、主に長所だけを見てそこから学ぶべきだということです。
ところが得てして人を見るにおいては、客観的に見るという名目のもとに、プラス面とマイナス面を合算してしまいます。
こうなると、プラス面はマイナス面を差し引いた分だけがプラスとなり、そのプラス面の評価は取るに足らないものとなってしまいます。
マイナス面を差し引かずに、そのままプラス面を見て、そこから学ぶ姿勢を取ることのほうがはるかに有益であることは言わずもがなです。
けちな批判心は胸の奥にしまい込み、常に相手の長所に焦点を当てて、そこから学ぶことができる人間でありたいものです。
・・・・「一日一斎 『言志四録』を味わう」より。
http://confucianism.blog.jp/archives/1024373931.html
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