人生に活きるとき、気取ったりぶったりしなければ、どれだけ心に余裕ができるかわからない。
「気取る」とは、広辞苑によれば、それらしい様子をまねて振る舞ってみたり、体裁を飾ったり、いかにも自分が立派なようにもったいぶることをいう。
また「ぶる」とは、それらしい様子をよそおったり、誇示したり、虚勢を張ることをいう。
いずれにしても、自分の柄でもないのに、他人を意識して自分をよく見せようと恰好つけることだ。
他人を意識する限り、自分の心の視点はいつも、自分にあるのではなく他人の側にある。
ところが他人は自分ではない。自分ではない他人が何を考えどう動くかはわからない。だからいつもいつも他人の言動が気になってしまう。
また他人の心はのぞけない。だからいつもいつも他人の心の中を推測することになる。推測はどんどん拡がっていくものだ。
推測と柄にもない自分づくりとが追いかけっこする。その時その時、ひとときの満足は実は空しい自己満足だ。
行けども行けども心が充たされることはない。それでも気になることばかり。
そのたびに自分の神経は、自分でないもののために、あるいは幻の自分を追いかけていつも張りつめていくことになる。
それは気がつくとか気配りとは別のものだ。すべては自分にとってマイナスと感じ、それを補うために知らなくてもいいものまで知ろうとして焦りとなる。
遂には神経過敏となる。神経過敏になれば。ちょっとした事が自分の負い目と映り、不利な事ばかりが拡大されて大問題となり、心の負担はますます大きい。
やがて深い穴蔵に落ち込んで、何も見えず何も聞こえず、独りぽっちを寒々と全身に受けて、必要以上に自己防衛となる。
心がグルグルと回って、手も足も出ないと感じたとき、病気となる。すべては、必要以上に自分を装おうとして、自分の心を忙しくしてしまうことからくる。
忙しいという字は、りっしんべん、すなわち心と亡から成る。亡は失うという意味だから、忙しいということは、心を失うということになる。心を失えば、かけがえのない自分をも失ってしまう。
自分と同じ顔をした人は、この世界に全くいないように、自分と同じ人生を持つ人は全くいない。
自分はあくまで自分であって、自分がこの人生を自覚している自分の人生は、どうあっても自分にとって一回きりの人生だ。自分は自分以外ではあり得ない。
それならば、自分の心は、不安定な他人の中でなく、自分自身の中に、しっかりと自分の心の錨を下ろしておくことだ。
どんな形、境遇であろうと自分は自分なんだ。どっしり開き直れ。
よそごとに自分の心を染めるのでなく、視点を自分に見据えたとき、自分の回り360度がぐるりとよく見えてくる。
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