<詩に云く、潛まりて伏すと雖も、亦孔だ之れ昭らかなりと。故に君子は内に省みて疚しからず、志に惡む無し。君子の及ぶ可からざる所の者は、其れ唯人の見ざる所か>
以下、伊與田覚先生の「中庸に学ぶ」(致知出版)より。
「潛(ひそ)まりて伏すと雖も、亦孔(はなは)だ之れ昭らかなり」
この部分は詩経にある言葉です。これは「潛(か)くれて伏すといって、現れないように見えるけれども、それは、はなはだ明らか」という意味です。「はなはだ明らか」とは隠したと思っても自然と外に現れてくるものである、と解釈すればいいでしょう。
「故に君子は内に省みて疚(やま)しからず、志に惡(にく)む無し」
したがって、君子、すなわち立派な人は、自ら省みて、疚(やま)しいところがないので、心に恥じるところがない。
「君子の及ぶ可からざる所の者は、其れ唯人の見ざる所か」
君子に及ぶことができないところのものは、ただ人の見ていないところで慎む、すなわち慎独することにより過ちのない生活をするのだろう、という意味です。
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ここは、大切なところなので、「慎独」について説明しておきましょう。
「中庸」の初めに、
「天の命ずる之を性と謂い、性に率う(したがう)をこれ道と謂い、道を修むるを之を教えと謂う。道は須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子その睹ざる(みざる)所を戒慎(かいしん)し、その聞かざる所を恐懼(きょうく)す」
とありました。
立派な人物は、他人の見ていないところで自分自身を慎むものである、ということですが、これが「中庸」を貫く根本思想であるということはすでにお話しした通りです。
この一人を慎むということは、一般の人にはなかなかできにくいことですが、日常生活の中で最も大切にしなければならないことを一つあげるとすれば、常に自分を省みる、つまり反省することなのです。
反省の「省」の字には二つの意味があります。
一つは、自分の行いを省みる、という意。しかし、それだけでは十分ではありません。省みた結果、良きものは残し、悪しきものは省いていくことが必要です。これが二つ目の意味です。省略という言葉もありますね。
人生は、この「省」の一字につきるといってもいいと思います。論語のなかに「我、日に我が身を三省する」という言葉があります。この場合の「三」は三回という意味ではありません。「度々」という意味です。つまり、度々、自分の行いを省みて至らないものはそこで省き、足りないものは補っていくことが必要だというのです。
皆さんも、一日一回、就寝前にでも一日の自分の行動を整理し、反省する機会を持たれるといいでしょう。
その一番手近な方法は日記をつけることです。しかし、年中休まずにつけ続けるということは、なかなか難しい。酔って帰ってきた時などは、ばったり倒れて、そのまま寝込んでしまうことはよくあることです。
私は自慢ではないが、学校に行っておる時分に校長さんから日記をつけることを勧められ、以来、今日に至るまで何十年もの間、日記をつけ続けています。
反省することによって慎独が可能になり、慎独を継続できるかできないかが、君子と小人の分かれ目になるのではないでしょうか。これがすなわち、
「君子の及ぶ可からざる所の者は、其れ唯人の見ざる所か」ということです。
・・・・・・・・・ちなみに伊與田覺先生は大正5年生。この著書作成は平成23年で当時95歳の時です。
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