mixiユーザー(id:5089039)

2014年12月05日23:37

1397 view

中江藤樹「明徳を明らかにする」


以下、中江彰「中江藤樹の生き方」(明徳出版)を参考にしました。

中江藤樹の学問は四書五経の一つ、「大学」の冒頭の「明徳を明らかにする」という、「明徳にはじまって、明徳に終わった」といえるのではなかろうか、とあります。

それでは、その明徳とは如何なるか。藤樹43歳のときの著作「明徳図説」に、

――明徳は、人の本心であり、天が人に与えたものであって、いわゆる人間が万物の霊長だといわれるゆえんは、実にここにある。

その明徳は、天地万物の道理をきっちりとそなえ、人知でははかり得ない不思議なものがあって、しかも天下の万事に応ずることができる。

そもそも人が禽獣とことなるゆえん、さらには人はみな聖天子の堯(ぎょう)・舜(しゅん)(堯・舜は孔子が理想の天子とした人)であるというゆえんは、まったくこの明徳にある。――

とあり、また藤樹34、5歳の「孝経啓蒙」には、

――わが身のもとは父母である。父母のもとは、これをさかのぼると始祖にいたる。その始祖のもとは天地であり、その天地のもとは、すなわち大虚(たいきょ)である。――

とある。以上のことから、すべての人間には、太陽と月とが並ぶほどの輝かしい徳がそなわっており、その明徳は、人間がこの世に生まれると同時に、天からひとしく賦与された。そして、宇宙の根源というべき「大虚」が、じつに明徳の本体そのものなのである。

明徳が人間にそなわっているのは、あたかも草木に根柢(こんてい)があるようなもので、その根柢がなければ、草木は育たない。また、その根柢が腐ってしまえば、草木はすぐに枯れてしまう。

人間もまた、心のなかの明徳を明らかにしなければ、結局、つまらない「小人(しょうじん)」に堕してしまう。小人の対極にある君子とは、まさしく明徳明らかな人をいう。――

この徳とは「直き心」であり、まっすぐに正しい心、素直な心をもった人が、徳のそなわった人にほかならない。

藤樹は、この明徳を「無価(むげ)の宝」、「如意宝珠」あるいは[天下第一の宝]というように、われわれの心のなかにある宝と表現した。

要するに、上は天子・聖人より、下は庶人・凡夫にいたるまで、もとめるならが誰でもが得られる宝珠の明徳が、すべての人にそなわっているのだ。

将軍、大名、武士、農民、馬方など、かかる職業の違いはあっても、一つの生命の根源(大虚)から生まれ、しかも同じ無価の宝珠をもって生れた人間という、その本質から見れば、なんら人間それ自体に尊卑の違いなどは、髪の毛一本の違いさえもない、というのが藤樹の人間観であった。

藤樹はその明徳をくもらす原因として、次のように言っている。

1.明徳をくもらす病気は五つ。習心。好悪の執滞。是非の素定。名利の欲。形気の便利。これらをはっきりとわきまえて、取り除くことである。

2.明徳をくもらす病の原因は、つまるところ「意(い)」である。それゆえ、明徳を明らかにする工夫は、その意を誠にする以外ない。
「意」とは「心かたより」であり、論語にある「意必固我」にほかならない。

 意:主観だけで憶測する。
 必:自分の考えを無理に押し通す。
 固:一つの判断に固執する。
 我:自分の都合だけしか考えない。

要するに、明徳をくもらす原因は、目に見て、耳で聞いた外物(がいぶつ)を追い求めて利欲の心が働き、さらに意必固我という循環してやまない我執の心に深く汚染されて「直き心」を失った、心のかたよりにある。

そして、明徳をくもらしてしまうと、その人に五つの症状があらわれる。すなわち、習心、好悪の執滞、是非の素定、名利の欲、気の便利である。

このような説など、まったく藤樹の創見といえよう。なお、仏教の貪(むさぼり)・瞋(怒り)・癡(愚痴)の三毒の心などは、意必固我の心に匹敵するであろう。

五つの病に、
習 心  ・・その人の育った家庭や環境によって、知らず知らずのうちに身についクセ(習癖)

是非の素定
・・あらゆる物事のよしあしをよく理解しようともせず、最初からこうだと決めつけてしまうクセ。平生から視野が狭く、頑強な人は、ここに原因がある。

好悪の執滞・・好き嫌いという自己中心の、いわば禽獣的な感情に執着して、そこから一歩も抜け出ようとはしないクセ。おとなの判断ができない人というのは、これに起因する。

名利の欲 ・・世間の名声や高位高官、金銀珠玉が一番の宝だと信じて、それを獲得しようとする心の炎である。自分より上位にある人がいれば、必ずねたみの心が生じる。

形気の便利・・人よりもすぐれた才能や特技をもっているがゆえのクセ。おのれの優越心がかえってわざわいとなって、人を見下げたり、ばかにしてしまう結果をもたらす。


習心とよく似たものに、「満心」がある。藤樹は慢心と書かずに、あえて満の漢字をもちいて、さかんに門人たちに宛てた書簡のなかで使っている。

れこそがいちばん偉いのだという思い上がりで、満つれば虧(か)けるともいい、また「書経」には、「満には損を招き、謙は益を受く。これすなわち天の道なり」とあるように、満心ゆえに小人に成り下がって、結局は、大事なものを失ってしまうのである。それに対して、謙虚の心にあることが、人として大切だというのである。



0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2014年12月>
日 月 火 水 木 金 土
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031