【中江藤樹の言葉】
善を為すは、耕運の如し。
当下の穀を得ざるといえども、必ず秋実を得る。
悪を為すは鴆酒(ちんしゅ)を飲むが如し。
即席の燕楽(えんらく)を得るといえども、必ず死期来たる。
〔注〕鴆酒(ちんしゅ)=毒酒
・・・善行というのは、あたかも汗水を流し苦労して、田畑を耕すようなもの。すぐに穀物を収穫できないけれども、秋になれば必ず実り、自分の口に入るのである。
それに対して悪行は、毒入りの酒を飲んでいるようなもので、すぐさま酔って歓楽できるけれども、毒が体中にじわりじわりとまわって、必ず死期を早まるのである・・・。
藤樹は、このような善因善果・悪因悪果の思想を、ことのほか信じた。その思想背景には、「書経」の「天道は善に福(さいわい)し、淫に禍す」があり、さらに藤樹自身の、脱藩における人生体験にも依拠しているものと思われる。
藤樹の人間観は、次のように言えよう。
すべての人間は、「明徳」という立派な徳を付与されて、天から生まれたが、その人生において自ら善行を積むと、天はそれに感応して幸福を与えるが、逆に明徳を曇らせて、人間としてあるまじき悪行をなせば、天はその人をこらしめて猛省をうながすために、その罰として災禍を与えるのである。
そのために、己一人にあるときにも慎みの態度を忘れずに「謙」の心をしっかり保持することが大切である。
もともと人間は、この世に生を受けるのはじめ、胎育十か月のあいだに、その寿命が定まっている。しかしながら、その人が善悪いかなる人生を送ったかによって、寿命を伸ばしたり、また縮めてしまうことになる。
このように、藤樹は、人としての道を平易に説いたが、根底には、五経のひとつ「書経」の福善過淫、おなじく「易経」の「積善の家には、かならず余慶あり、積不善の家には、かならず余殃あり」の思想、さらには淮南子の「それ陰徳ある者は、かならず陽報あり」の思想が存在していた。
【中江藤樹の言葉】
天道は善に福(さいわい)し悪に禍すること、猶水のうるをへるに順ひ、火のかはけるにつくがごとし。
純粋至善の天道は、善行には幸いを与え、悪行には禍を与える。これは、水が多くなるにしたがい、火が消されていくようなことである。
以上、中江彰「中江藤樹の生き方」(明徳出版)を参考にしました。
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