mixiユーザー(id:5089039)

2014年12月03日08:37

134 view

山田方谷の人となり



安岡正篤先生(終戦勅語を起草した方)が心酔し、
「古代の聖賢は別として、近世の偉人といえば、私はまず山田方谷を想起する。この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚える」と述べておられた。

そして、越後長岡藩の河井継之助が傾倒し、師と仰いだのは有名です。

東洋の英傑「山田方谷」は幕末の備中松山藩をわずか7年で蘇らせた偉人で、幕末の老中だった板倉勝静に大政奉還の草案をも進言したという陽明学者です。

備中松山藩(岡山県高梁市)は五万石の藩だが、実質は二万石しかなく、借財は積り積って10万両(現在の約600億円)に達していました。

方谷は、確固たる哲学の下、次々と手を打ち、利益は3年にして1万両(60億円)、4年目には5万両(300億円)に迫り、わずか7年で藩政改革を成し遂げ、全ての借財を終え、更に10万両の余剰金迄を生み出したのです。

岡山県高梁に、その人徳をしのんで、日本で唯一人名にちなむ駅、「方谷駅」があり、今でも「山田方谷先生」を人々は神の如く尊敬していると言われます。

維新後は、備中松山藩の存続に力を注いで成功し、新政府からの財務大臣就任の要請を断って、郷土の子弟教育に晩年は尽力し、明治10年(1877年)73歳で薨去。

その山田方谷について、ネット「山田方谷マニックス・山田方谷と炎の陽明学」に詳しいので、要約しながら紹介します。
http://yamadahoukoku.com/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%96%B9%E8%B0%B7%E3%81%A8%E7%82%8E%E3%81%AE%E9%99%BD%E6%98%8E%E5%AD%A6/


【佐藤一斎の塾の塾頭に】

3歳で漢字を覚え、9歳のときには、すでに四書(論語・孟子・大学・中庸)を暗誦していた。
30歳のとき藩主板倉勝職の命により、江戸にて佐藤一斉の塾に入るが、全国から集まった俊英のなかで瞬く間に頭角を現し、塾頭になった。

そこで学んだ陽明学のポイント。
1. 人間は小宇宙そのものなのだ。心が私利私欲に染まりさえしなければ天の理がそなわる。王陽明は、その理を「良知」と言い換え、それをしっかり具現することを「良知を致す」、つまり「致良知」として、教育の中心に据えた。
2. 「知行合一」、心を鏡のごとく磨け。人は磨き切った己の鏡の心をよりどころとして行動せよ。知っていながら行わないということは、まだ知らないに等しい。

【藩政の大改革】

板倉勝静が新藩主の座につくと方谷に藩の元締役と吟昧役を命じた。45歳で藩の大蔵大臣にした。
藩の財政状態を知った方谷は愕然とした。備中松山藩は大坂の蔵元を中心に10万両の借財を抱えていたのだ。しかも表高こそ5万石だが、実収入は2万石に満たない。破産状態にあったのである。

★大坂に出向き蔵元の商人を一同に集めて持参した帳簿を見せて粉飾決算を公表し、
10万両の借金を一時棚上げしてくれるように頼み込んだ。

★再建策を彼らに示した。借金を棚上げしてもらった間に藩の財務体質を正常化させる。そのうえで改めて新規事業に投資する。そして新規事業で得た利潤で負債を返済。

★新規事業は「鉄」である。豊富で良質の砂鉄に恵まれたこの地にタタラ吹きの鉄工場を次々につくり、鋤、鍬などの農具や鉄器を製造したのである。膨大な公共投資だった。

★大倹約令を断行。藩士に減俸、賄賂を禁止する。方谷の減俸率は他の藩士の倍として、自分の家の会計を他者に委任した。

★農民に対して、徹底した保護策をとった。彼は新田開拓を奨励し、そこで取れた米には租税を徴収しなかった。これが農民の生産性意欲を刺激した。減税したにもかかわらず米の生産は倍加し、藩の米蔵は満杯となった。

★不換紙幣となって民衆の信用を失った藩札(紙幣)を正価で買い戻し、3年後に河原にそっくり積み上げ、民衆が見守るなかでことごとく燃やしてしまったのである。人々の驚き、どよめきのなかから、方谷への厚い信頼が生まれた。紙幣がスムーズに流通するようになった。

そして、8年後には10万両の借金はなくなり、逆に10万両の蓄財ができた。改革は見事に成功したのだった。

【富国強兵】

「これからの備中松山藩には軍制の改革と洋式砲術の導入が必要である」と確信する方谷は、藩の正兵の倍以上にのぼる農兵を組織し、西洋銃による徹底訓練を実施した。

長州藩の久坂玄瑞はこの光景を見て、「わが長州はとてもかなわない」と脱帽した。36万石の長州藩が5万石の備中松山藩に軍備の面で劣勢と認めたのである。

明治維新後は、明治政府からの入閣の要請を断り、子弟の教育に専念しました。


・・・・・以上。


山田方谷は、誠意をもって全力で生きた偉人といえます。
山田方谷に学ぶ会編「山田方谷のことば――素読用」(登龍館)の表紙に、ジャーナリスト・桜井よしこ氏が、次のように書いてあります。

山田方谷がその一生で私たちに示してくれたのは、人間は如何に生きるべきかという価値観にとどまらず、実際にその価値観そのままに生ききった姿である。

“神童”と称された幼い方谷に文字を教え、学問を修めさせたのは、母親の梶だった。
赤貧洗うが如き暮らしのなかで、母は自分の身を削って方谷を育て、学ばせた。深い親の愛に守られて大成した方谷の言葉は、それを学ぶ子供の心に畏敬の想いと勇気を与えることだろう。
また、山田方谷に学ぶ全ての人は、母を思う方谷の、方谷を想う母の愛の深さを知るだろう。



1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2014年12月>
日 月 火 水 木 金 土
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031