成人しての教には、明徳明らかなる君子をもとめ、師匠として儒道の心学をおしへ、ひたすらに、明徳を明らかにする工夫を励まし、才智芸能などは、その生得(うまれつき)の器用にしたがってをしへ成べし。
以下、ネットより。
http://www.ningen-ryoku.com/nakaetoju.html
成人を教えるには、明徳が明らかな君子を求めて学び、師としては彼らに儒学の道の本質(心学)を教えて、ひたすら、明徳を明らかにするための工夫を奨励して、その人の持っている才能や芸能や技術は、その人の持っている能力に基いて指導することが必要である、と述べているのである。
中江藤樹は、その人生において、様々な師を求めているが、結局、明徳明らかなる師と出会う機会がなく、独学で自分の思想哲学を完成させていくことになるのである。
四書に始まって、朱子学に傾倒し、五経を学ぶことにより、心学を儒学の本質だと認識し、陽明学に傾倒し、自分の思想哲学を成就させていく。その過程の中で、藤樹の師は、常に書物である。
それは、書物を読みながら、実生活の中で実践するということで積み上げられてきたものであるように思う。
藤樹にとっての師は、書物であり、それを実践する自分自身であったのであろう。だから、学びにくる弟子たちを同志と呼んで、対話する中から、皆で学んでいくという姿勢を奨励し、座右の戒めとしたのであるように思う。
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