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2014年11月30日09:55

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金200両を届けた馬子の補足



先日の日記「中江藤樹についてのエピソード」(2014年11月19日)で、正直者の馬子が飛脚に忘れた大金200両を届けたという話を書きました
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1935306559&owner_id=5089039


「命の恩人」と、涙まで出して感謝した飛脚の、当時の社会環境を中江彰「中江藤樹の生き方」(明徳出版)より補足します。

★慶長小判の金子200両は、現在の価格に換算すると、少なくとも2千万円以上に及ぶであろう。その金子は、おそらく加賀国のある藩の公用金であって、それを飛脚が京都の藩屋敷に送り届けるという役目をおびていた。

★飛脚とはいうものの、専門職のそれではなく、その藩における護身用の脇差を腰にした下級武士であったと思われる。

★江戸時代の法令、たとえば1774年(延享元)取締り令によると、飛脚が金子入りの書状を受け取り、道中に切り解いてやり捨ててしまうと、つまり金子を盗んでしまうと、その金額の多少にかぎらず、引廻しのうえ、死罪となっている。

★加賀の飛脚のばあい、道中で大金をなくしたと言い訳しても、結果的には、盗んだと同じ扱いになることは必定であり、飛脚は、榎木の旅籠で、この後に待ち受けているであろう死罪を、当然覚悟したにちがいないし、親、兄弟の不幸をあわれんだことであろう。

★それ故、馬方が8里むこうの榎木まで、息絶えだえに走って、なんら手のつけていない200両の財布をわざわざ届けてくれたときに、血の気のない真っ青な顔をした飛脚が、まるで「死者がこの世によみがえった」ような気持ちになったのも、決しておおげさな表現ではなかった。

★飛脚にとって、この見ず知らずの馬方は、本人はもちろんのこと、家族をも助けてくれた、まさしく「命の恩人」であった。大事な忘れ物を届けてくれた馬方に対して、自分の持ち金の15両を差しあげようとした飛脚の行為は、ごく自然の心情であったわけである。

西近江路の小さな宿場に住んでいた馬方は「又左衛門」といい、ふだんは農業をなりわいとしていた。かかる又左衛門の一連の言行を通じて、三つのことが指摘できる。

1 正直
まず彼の行ないは、なによりも正直そのものであった。財布を見つけたとき、そのそば身内の者がいたとすれば、それを自分のものにすることは罪悪感を感じて、なかなかできないことである。そしてまた、落とし主に返さねばとも思う。

もし、周囲にだれもいなくて、自分ひとりが偶然に見つけたとするならば、さほど罪悪感を感じることなく、内緒で手中におさめておこうという気持ちが、頭をもたげる。そうした金品の誘惑にも振りまわされずに、とにかく名前も知らず、顔もしっかりと覚えていない飛脚に返してあげようとしたのは、正直の心によるものであった。

2 慈悲
又左衛門が財布を見つけたときに、どういう心境になったのか。「こんな大事な大金を忘れていって、アホな飛脚やあ。なにをボケたことをしてるんや」と、こきおろしたかというと、おそらくそうでなかった。

「財布をなくしたことに気づいて、きっと今ごろは困り果てているやろな。こんな大金なくしたら、あの飛脚はどんなひどい目に遭うか知れない。また、その責任をかんじて、もしかしたら切腹して命を絶つかも知れない。それを思うと、気の毒なことや。

すぐに榎木まで行って、返してあげないと・・・・」と、又左衛門は思ったであろう。これすなわち、人のあわれみ、いつくしむ心であり、慈悲の心にほかならない。

3 知恵
飛脚が、榎木の旅籠にいることは分かっている。しかし、「道中において、財布のひもがゆるんで落ちたものと思っているにちがいないから、飛脚は明日の朝になったら旅籠を出て、もときた道の心あたりを、あちこちとさがし歩くであろう。

となれば、明日になって届けてやると、もう再び飛脚に会うことができなくなる。とにかく、今夜中に榎木の旅籠へ行って、直接本人に返してあげよう」と、又左衛門はふかく知恵をめぐらしたと思われる。



これら三つの心は、それぞれ「正直の徳」「慈悲の徳」「知恵の徳」と言い換えることができよう。徳は「直き心」という意味が含まれているからである。まさしく、又左衛門はこの三徳をしっかりと身にそなえていた人である。

と同時に、又左衛門の行いを見るとき、おそらく誰に相談することもなく、自身のとっさの判断で榎木へ走って行き、しかもその対価の謝礼をいっさい求めようとしなかった。

そして、そのあとにおいても、だれ一人にも言わず、自慢するような言葉は、又左衛門の口からいっさい出なかったと思われる。又左衛門の「陰徳」にほかならない。

このことから、人に知られざる善行の陰徳には、正直、慈悲、知恵の三徳がしっかりと包含されていることが分かる。要するに、陰徳は、人としての最高の道徳であって、藤樹が、村民を対象にした夜間学校を開き、彼らにいつも「人としての道」を語り聞かせた、その教えの根底には陰徳思想が含まれていた。

ところで、藤樹の書を読むと、藤樹が村民たちに対してどういうことを教えていたか、具体的に知ることができる。

・親には、つねにまごころをもって仕えること。
・家の主人は、大切にするものである。
・どんな理由があっても、人の物を取ってはならない。
・人に危害を及ぼしたり、人の財産をだまし取るなど、人間としてあるまじ き行いをしてはならない。

これら以外にも、もちろん教誨のことばがあったにちがいないが、このうちの三つの教えが、とくに又左衛門の心につよく残っていたのであろう。




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