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■室町時代、室町幕府が好き■コミュの↓ かなりの長文なので、読書習慣のない人には不向きです。ご了承ください。  「鞆の浦」一帯には多くの寺社が点在しているようですが、自分の訪問目的は、1992年に都市景観100選に、2007年には美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれた鞆の浦の古い町並み見物、「鞆幕府」、さらに福禅寺の対潮楼(たいちょうろう)にあったので、そういう寺社やさらには沖合に点々と存する島々も訪れはしませんでした。 https://www.youtube.com/watch?v=FFhbkmCVvvw    広島県福山市 4K日本遺産 鞆の浦  「鞆の浦」とは地名ではなく、広島県福山市鞆地区の港湾を指すことばです。  戦国時代の後半、日本統一に最初に王手をかけた人物といえば、織田信長でしょう。  尾張國(現在の愛知県の東部)のさらに半分の守護代という、いわば土着豪族から出発した信長は、中京地区・近畿地区を制圧し、いよいよ中国・四国地方制圧にとりかかった時点で有力家であった明智光秀の突然の謀反により、京の本能寺で紅蓮の炎の中に消えていったのでした。  この信長が飛躍したのには二段階が考えられます。  第一段階は、よく言われている「桶狭間の戦い」で、駿河・遠江・三河を支配していた"東海一の弓取り"と称された大豪・今川義元を討ち取ったこと。  そして第二段階は、都の室町幕府将軍を戴いて、他国侵攻への大義名分を得たことにあります。  娯楽時代小説の多くで省かれている視点ですが、史実としてはここがポイント。  信長は最初の上洛で、第13代将軍・足利義輝に謁見していますが、彼は永禄の変(えいろくのへん)によって死去してしまいました。  そして各地を流浪していた第15代将軍・足利義昭(よしあきら.この時点ではまだ将軍ではない)からの"室町幕府再興"の呼びかけに応え、義昭を奉じて1567年10月に上洛して室町幕府との二重政権(連合政権)をスタートさせたのです。  しかしこの二頭政治は長続きしませんでした。  永禄12年(1569年)1月14日には信長は将軍を牽制する『殿中御掟(でんちゅうおんおきて)』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせました。  この殿中御掟21ヶ条は信長と義昭の不和を顕在化させたとされていましたが、近年の研究では信長と義昭双方で作られた確認事項であったともされており、まだ、両者の仲に決定的な悪化をもたらしたものではなかったようです。  1572年の12月から翌年正月のあいだのいずれかの時点で、信長は足利義昭に対して17条からなる異見書を送ったと考えられ、それへの詰問文により信長と義昭の関係は悪化していったと考えられます。  義昭は京にいながら、武田信玄やかつて寄宿していた朝倉義景、浅井長政らの戦国大名と呼応して信長包囲網を築き上げます。一時は信長を追いつめもしましたが、やがて京都から追われ、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされています。  河内国や和泉国、紀伊国を流浪したのち、備後国へ下向した義昭を拾い上げたのが、やがて信長(の先鋒軍・羽柴秀吉)と全面対決するであろう、中国地方の大豪・毛利輝元(毛利元就の孫)でした。  義昭はこの地・鞆(現・広島県福山市)で将軍としての活動を続け、そして輝元の庇護を受け、亡命政権・鞆幕府を樹立し、反信長勢力と連合して対抗しようとしました。  これが歴史学者・藤田達生が提唱した通称「鞆幕府」です。  しかしこれは決して実体のないものではなく、奉公衆・奉行衆・同朋衆・猿楽衆・侍医・女房衆などが50人以上、伊勢の北畠具親や若狭の武田信景、丹波の内藤如安、近江の六角義治(義堯)らといった大名の子弟からなる大名衆も集結し、その幕府関係者の総勢は100名を下らなかったと伝えられています。  信長滅亡後の天正16年(1588年)1月13日、すでに前年に九州侵攻の途上の豊臣秀吉と対面していた義昭は、毛利氏の兵に護衛されながら、京都に帰還しました。義昭にとっては、およそ15年ぶりの京都でありました。  天正16年(1588年)1月13日、義昭は秀吉とともに参内し、将軍職を正式に朝廷に返上しました。名実ともに室町幕府の終焉です。  そして義昭は豊臣秀吉から山城国槇島に1万石の所領を認められました。さらに出家して昌山道休(しょうざん どうきゅう)と号しました。 https://www.youtube.com/watch?v=AjmoAn8SAsg   【宇治市】伊勢田から槙島を散策【槙島公園】   義昭は前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であり、また秀吉の御伽衆に加えられるなど、貴人として遇された余生を送りました。  私は鞆の浦の商家などを巡り、鞆幕府の跡地はどこか、聴き廻りましたが、知る者はいませんでした。ここに幕府らしいものがあったということをなんとなく知ってはいたものの、足利義昭の名を知る者はいませんでした。  それは福山市立図書館や福山市歴史資料室(まなびの館ローズコム4階)、県立図書館で市史や県史などを紐解いてみても、ようとして知れませんでした。 https://www.youtube.com/watch?v=5BA-QGuJ-0o    まなびの館ローズコム  それは今は御座所(ござしょ)として明らかになっていますが… ↓ https://www.youtube.com/watch?v=_jinvbW4bsU  うかつなことに、「鞆の浦歴史民俗資料館」というのがあるのも知らなかったです。 https://tomo-rekimin.org/   鞆の浦歴史民俗資料館  灯台下暗し…   慶長2年(1597年)8月28日、足利義昭、大坂にて薨去。  この動画で、鞆の街並みと、自分は訪れなかった丘の上にある医王寺が紹介されています。  ぜひ、最初から最後までご覧になってください ↓ https://www.youtube.com/watch?v=kYDfaH8Sgc8  動画内の01:23あたりで紹介されている「いろは丸事件」というのは、  こういうことです。じっくりお読みください ↓ https://www.tomonoura.jp/tomo/irohamaru.html    鞆の浦と坂本龍馬 いろは丸展示館 「龍馬が主張した鉄砲などの銃火器は一切発見されませんでした」   ↑ 龍馬ちゃん、お茶目にやらかしたんだなー。   最下段にある「平成いろは丸」が港内にありましたが、龍馬が乗っていた艦船よりはかなり小さいものだそうです。  05:47あたりで述べられている「平賀源内が気になる」というのは、源内が存命中に霊を祀(まつ)られたようで、その施設「生祠(せいし)」が鞆にはあるそうです。 https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64097.html    平賀源内生祠(ひらがげんないせいし)  01:00あたりで述べられている「いくつかの映画のロケ地にもなっていて」。  鞆の浦の前に開けている瀬戸内海の眺めが絶景なのと、古い町並みがノスタルジーを感じさせるので、多くの文学作品や映画やドラマの舞台となってきているのです。  万葉集に歌があるのはご紹介しましたが、箏曲者の宮城道雄の『春の海』は宮城の生地である鞆の浦をイメージしたもの。 https://www.youtube.com/watch?v=2x6sltsCPkI    春の海 宮城道雄自作自演  三島由紀夫原作の映画『剣』、高倉健主演の『遊侠列伝』、松田優作と中村雅俊主演の刑事ドラマ『俺たちの勲章』の第17話「子守唄」、野坂昭如原作で松嶋菜々子主演の『火垂るの墓―ほたるのはか―』、長澤まさみ・岡田将生主演の『潔く柔く』、小栗旬主演の『銀魂』…等々。 https://www.youtube.com/watch?v=GvZ8zvcK4wI    俺たちの勲章 1975  そして最も有名なのが、宮崎駿監督が、2004年11月に社員旅行で訪れた鞆の浦を気に入り、2005年春、一軒家を借り切って2か月間滞在し、さらに2006年夏、自炊生活をしながら散策する毎日をおくり、『崖の上のポニョ』として映画化したことです。 https://www.youtube.com/watch?v=mBfCmfAV6DA    崖の上のポニョ  流浪将軍・足利義昭とこれを庇護した大大名・毛利輝元(毛利元就の孫)がこの鞆の町で、二人並んで「首実験」をした、と言えば、信じられるでしょうか ?  毛利氏が中国地方に覇を唱える以前、出雲(島根県東部)を足掛かりとして、山陰・山陽八ヶ国に大勢力を築いた尼子氏(あまこし)がおりました。  しかし毛利元就に本拠地を攻められて最後には降伏し、戦国大名としての尼子氏はここに終わりを告げました。かつての居城が月山富田城(がっさんとだじょう)で、現在でも島根県安来市広瀬町富田に巨大な土塁が残っています。  尼子氏の遺臣である山中幸盛や立原久綱らは、尼子一族の尼子勝久を擁立して、織田信長の援助を受けながら各地で抵抗し、一時は城を得て尼子氏を再興しました。しかし天正6年(1578年)に播磨上月城を毛利軍に落とされて勝久は自害し、幸盛は誅殺されてしまいました。  この山中幸盛こそ、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名な山中鹿介(やまなかしかのすけ)です。  その山中鹿介の首実検が足利義昭や毛利輝元によって、ここ、鞆で行なわれたのです。  歴史をたどってみても次々に色々なことが出て来る鞆の町でした。

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↓ かなりの長文なので、読書習慣のない人には不向きです。ご了承ください。


 「鞆の浦」一帯には多くの寺社が点在しているようですが、自分の訪問目的は、1992年に都市景観100選に、2007年には美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれた鞆の浦の古い町並み見物、「鞆幕府」、さらに福禅寺の対潮楼(たいちょうろう)にあったので、そういう寺社やさらには沖合に点々と存する島々も訪れはしませんでした。

https://www.youtube.com/watch?v=FFhbkmCVvvw
   広島県福山市 4K日本遺産 鞆の浦

 「鞆の浦」とは地名ではなく、広島県福山市鞆地区の港湾を指すことばです。


 戦国時代の後半、日本統一に最初に王手をかけた人物といえば、織田信長でしょう。
 尾張國(現在の愛知県の東部)のさらに半分の守護代という、いわば土着豪族から出発した信長は、中京地区・近畿地区を制圧し、いよいよ中国・四国地方制圧にとりかかった時点で有力家であった明智光秀の突然の謀反により、京の本能寺で紅蓮の炎の中に消えていったのでした。

 この信長が飛躍したのには二段階が考えられます。
 第一段階は、よく言われている「桶狭間の戦い」で、駿河・遠江・三河を支配していた"東海一の弓取り"と称された大豪・今川義元を討ち取ったこと。

 そして第二段階は、都の室町幕府将軍を戴いて、他国侵攻への大義名分を得たことにあります。
 娯楽時代小説の多くで省かれている視点ですが、史実としてはここがポイント。

 信長は最初の上洛で、第13代将軍・足利義輝に謁見していますが、彼は永禄の変(えいろくのへん)によって死去してしまいました。

 そして各地を流浪していた第15代将軍・足利義昭(よしあきら.この時点ではまだ将軍ではない)からの"室町幕府再興"の呼びかけに応え、義昭を奉じて1567年10月に上洛して室町幕府との二重政権(連合政権)をスタートさせたのです。

 しかしこの二頭政治は長続きしませんでした。
 永禄12年(1569年)1月14日には信長は将軍を牽制する『殿中御掟(でんちゅうおんおきて)』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせました。
 この殿中御掟21ヶ条は信長と義昭の不和を顕在化させたとされていましたが、近年の研究では信長と義昭双方で作られた確認事項であったともされており、まだ、両者の仲に決定的な悪化をもたらしたものではなかったようです。

 1572年の12月から翌年正月のあいだのいずれかの時点で、信長は足利義昭に対して17条からなる異見書を送ったと考えられ、それへの詰問文により信長と義昭の関係は悪化していったと考えられます。

 義昭は京にいながら、武田信玄やかつて寄宿していた朝倉義景、浅井長政らの戦国大名と呼応して信長包囲網を築き上げます。一時は信長を追いつめもしましたが、やがて京都から追われ、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされています。

 河内国や和泉国、紀伊国を流浪したのち、備後国へ下向した義昭を拾い上げたのが、やがて信長(の先鋒軍・羽柴秀吉)と全面対決するであろう、中国地方の大豪・毛利輝元(毛利元就の孫)でした。

 義昭はこの地・鞆(現・広島県福山市)で将軍としての活動を続け、そして輝元の庇護を受け、亡命政権・鞆幕府を樹立し、反信長勢力と連合して対抗しようとしました。

 これが歴史学者・藤田達生が提唱した通称「鞆幕府」です。
 しかしこれは決して実体のないものではなく、奉公衆・奉行衆・同朋衆・猿楽衆・侍医・女房衆などが50人以上、伊勢の北畠具親や若狭の武田信景、丹波の内藤如安、近江の六角義治(義堯)らといった大名の子弟からなる大名衆も集結し、その幕府関係者の総勢は100名を下らなかったと伝えられています。


 信長滅亡後の天正16年(1588年)1月13日、すでに前年に九州侵攻の途上の豊臣秀吉と対面していた義昭は、毛利氏の兵に護衛されながら、京都に帰還しました。義昭にとっては、およそ15年ぶりの京都でありました。

 天正16年(1588年)1月13日、義昭は秀吉とともに参内し、将軍職を正式に朝廷に返上しました。名実ともに室町幕府の終焉です。

 そして義昭は豊臣秀吉から山城国槇島に1万石の所領を認められました。さらに出家して昌山道休(しょうざん どうきゅう)と号しました。
https://www.youtube.com/watch?v=AjmoAn8SAsg
  【宇治市】伊勢田から槙島を散策【槙島公園】 

 義昭は前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であり、また秀吉の御伽衆に加えられるなど、貴人として遇された余生を送りました。



 私は鞆の浦の商家などを巡り、鞆幕府の跡地はどこか、聴き廻りましたが、知る者はいませんでした。ここに幕府らしいものがあったということをなんとなく知ってはいたものの、足利義昭の名を知る者はいませんでした。
 それは福山市立図書館や福山市歴史資料室(まなびの館ローズコム4階)、県立図書館で市史や県史などを紐解いてみても、ようとして知れませんでした。
https://www.youtube.com/watch?v=5BA-QGuJ-0o
   まなびの館ローズコム

 それは今は御座所(ござしょ)として明らかになっていますが… ↓
https://www.youtube.com/watch?v=_jinvbW4bsU

 うかつなことに、「鞆の浦歴史民俗資料館」というのがあるのも知らなかったです。
https://tomo-rekimin.org/
  鞆の浦歴史民俗資料館

 灯台下暗し… 


 慶長2年(1597年)8月28日、足利義昭、大坂にて薨去。



 この動画で、鞆の街並みと、自分は訪れなかった丘の上にある医王寺が紹介されています。
 ぜひ、最初から最後までご覧になってください ↓
https://www.youtube.com/watch?v=kYDfaH8Sgc8

 動画内の01:23あたりで紹介されている「いろは丸事件」というのは、
 こういうことです。じっくりお読みください ↓
https://www.tomonoura.jp/tomo/irohamaru.html
   鞆の浦と坂本龍馬 いろは丸展示館

「龍馬が主張した鉄砲などの銃火器は一切発見されませんでした」
  ↑ 龍馬ちゃん、お茶目にやらかしたんだなー。 

 最下段にある「平成いろは丸」が港内にありましたが、龍馬が乗っていた艦船よりはかなり小さいものだそうです。


 05:47あたりで述べられている「平賀源内が気になる」というのは、源内が存命中に霊を祀(まつ)られたようで、その施設「生祠(せいし)」が鞆にはあるそうです。
https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64097.html
   平賀源内生祠(ひらがげんないせいし)


 01:00あたりで述べられている「いくつかの映画のロケ地にもなっていて」。
 鞆の浦の前に開けている瀬戸内海の眺めが絶景なのと、古い町並みがノスタルジーを感じさせるので、多くの文学作品や映画やドラマの舞台となってきているのです。

 万葉集に歌があるのはご紹介しましたが、箏曲者の宮城道雄の『春の海』は宮城の生地である鞆の浦をイメージしたもの。
https://www.youtube.com/watch?v=2x6sltsCPkI
   春の海 宮城道雄自作自演

 三島由紀夫原作の映画『剣』、高倉健主演の『遊侠列伝』、松田優作と中村雅俊主演の刑事ドラマ『俺たちの勲章』の第17話「子守唄」、野坂昭如原作で松嶋菜々子主演の『火垂るの墓―ほたるのはか―』、長澤まさみ・岡田将生主演の『潔く柔く』、小栗旬主演の『銀魂』…等々。

https://www.youtube.com/watch?v=GvZ8zvcK4wI
   俺たちの勲章 1975

 そして最も有名なのが、宮崎駿監督が、2004年11月に社員旅行で訪れた鞆の浦を気に入り、2005年春、一軒家を借り切って2か月間滞在し、さらに2006年夏、自炊生活をしながら散策する毎日をおくり、『崖の上のポニョ』として映画化したことです。

https://www.youtube.com/watch?v=mBfCmfAV6DA
   崖の上のポニョ


 流浪将軍・足利義昭とこれを庇護した大大名・毛利輝元(毛利元就の孫)がこの鞆の町で、二人並んで「首実験」をした、と言えば、信じられるでしょうか ?

 毛利氏が中国地方に覇を唱える以前、出雲(島根県東部)を足掛かりとして、山陰・山陽八ヶ国に大勢力を築いた尼子氏(あまこし)がおりました。
 しかし毛利元就に本拠地を攻められて最後には降伏し、戦国大名としての尼子氏はここに終わりを告げました。かつての居城が月山富田城(がっさんとだじょう)で、現在でも島根県安来市広瀬町富田に巨大な土塁が残っています。

 尼子氏の遺臣である山中幸盛や立原久綱らは、尼子一族の尼子勝久を擁立して、織田信長の援助を受けながら各地で抵抗し、一時は城を得て尼子氏を再興しました。しかし天正6年(1578年)に播磨上月城を毛利軍に落とされて勝久は自害し、幸盛は誅殺されてしまいました。

 この山中幸盛こそ、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名な山中鹿介(やまなかしかのすけ)です。
 その山中鹿介の首実検が足利義昭や毛利輝元によって、ここ、鞆で行なわれたのです。

 歴史をたどってみても次々に色々なことが出て来る鞆の町でした。