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■室町時代、室町幕府が好き■コミュの応仁の乱の導火線  15世紀の半ば過ぎ、幕府の内部では、分裂がますます深刻となっていました。  畠山対細川といった有力守護大名の家内部の分裂がいたるところに発生し、それが大名間権力闘争にからみだしたのでした。  応仁大乱の直接の導火線は、畠山家の相続問題でした。前述のように細川と争ってきた畠山持国にははじめ子がいませんでした。そのため弟持冨(もちとみ)の子政長(まさなが)を継嗣(けいし.あとつぎ)としましたが、そのあと側室が実子義就(よしなり)を生みました。持国は宝徳二年(1450)、義就に家を譲ったことから、畠山家の重臣、遊佐(ゆさ)・神保(じんぼ)などはこれを不満といたしました。  享徳四年(1455)、畠山持国が死去すると、義就と政長は争い、家臣たちも二分するという相続争いにつきものの分裂がひろまりました。不利な立場におかれた政長は、細川勝元と結びつきました。  ところが長禄四年(1460)、将軍足利義政は、意にさからった義就を追放し、越中・河内・紀伊三か国の守護職(しゅごしき)を政長に与えたうえ、政長に義就追討を命じました。政長は河内に走った義就を追い、たびたび戦いましたが、勝敗は決しませんでした。この間、寛正五年、政長は細川勝元に代わって管領となりました。追いつめられた義就は、細川勝元と不和になった山名持豊(もちとよ.宗全=そうぜん)に接近しました。  細川勝元と山名宗全の対立には、さらにもっと重大なことがからんできました。それは嘉吉の乱で滅亡した赤松家の再興問題でありました。普通なら将軍を弑逆(しいぎゃく)した満祐(みつすけ)のあとを復興させることはありえないでしょうが、山名の勢力が中国地方を中心に大きく伸びてきたため、足利義政としても、細川としても、これを牽制する手段として、播磨の赤松を復興させようとしたのです。  これは宋全にとっても絶対に認めがたいことでしたが、義政は赤松満祐の弟の孫にあたる赤松政則(まさのり)に家の再興を認め、加賀の富樫家の内紛むによって召し上げた加賀半国守護職を正則に与えました。  これによって宗全は、やがて自分の播磨守護職も奪われるだろうと感じたことは当然であり、宗全の反義政・勝元という関係は決定的となりました。  応仁大乱の構図は、これに周知の将軍家継嗣問題、すなわち、義政が弟義視(よしみ)を養子としたあと夫人(日野)富子が実子義尚(よしひさ)を生んだことがからんで、できあがってゆきます。 参考文献  『岩波講座日本歴史7 中世3』「応仁・文明の乱」 百瀬今朝雄(著) 岩波書店  『応仁の乱に生きる』上・下 宮本義己(著) 日本放送出版協会  『室町幕府と応仁の乱』 笠原一男(著) 木耳社    『山名宗全』 川岡勉(著) 吉川弘文館〈人物叢書〉  『山名宗全と細川勝元』 小川信(著) 新人物往来社  『足利義政 - 日本美の発見』 ドナルド・キーン(著) 中央公論新社  『室町時代』 脇田 晴子(著) 中公新書  『室町ワンダーランド あなたの知らない「もうひとつの日本」』         清水克行(著) 文芸春秋社  『大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー 258)』         清水 克行(著) 吉川弘文館  『室町幕府解体過程の研究』 今谷明(著) 岩波書店  『百姓から見た戦国大名』 黒田 基樹(著) ちくま新書  『世界大百科事典』 加藤周一(編) 平凡社  『国史大辞典』 瀬野精一郎(担当編集)  吉川弘文館  『日本中世の世界1 中世社会の成り立ち』 木村茂光(著) 吉川弘文館  『日本の時代史』 全30巻 吉川弘文館  『日本史大事典』 全7巻 平凡社 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、日月水金には日本中世史を、火木土には哲学・思想を日記にて執筆しています。 さらに随時、旅日記(最近のものでは川崎市川崎区)や個人開示もしております。 何かの折に覗いていただけたら嬉しいなっと (⌒▽⌒)

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応仁の乱の導火線

 15世紀の半ば過ぎ、幕府の内部では、分裂がますます深刻となっていました。
 畠山対細川といった有力守護大名の家内部の分裂がいたるところに発生し、それが大名間権力闘争にからみだしたのでした。

 応仁大乱の直接の導火線は、畠山家の相続問題でした。前述のように細川と争ってきた畠山持国にははじめ子がいませんでした。そのため弟持冨(もちとみ)の子政長(まさなが)を継嗣(けいし.あとつぎ)としましたが、そのあと側室が実子義就(よしなり)を生みました。持国は宝徳二年(1450)、義就に家を譲ったことから、畠山家の重臣、遊佐(ゆさ)・神保(じんぼ)などはこれを不満といたしました。

 享徳四年(1455)、畠山持国が死去すると、義就と政長は争い、家臣たちも二分するという相続争いにつきものの分裂がひろまりました。不利な立場におかれた政長は、細川勝元と結びつきました。

 ところが長禄四年(1460)、将軍足利義政は、意にさからった義就を追放し、越中・河内・紀伊三か国の守護職(しゅごしき)を政長に与えたうえ、政長に義就追討を命じました。政長は河内に走った義就を追い、たびたび戦いましたが、勝敗は決しませんでした。この間、寛正五年、政長は細川勝元に代わって管領となりました。追いつめられた義就は、細川勝元と不和になった山名持豊(もちとよ.宗全=そうぜん)に接近しました。

 細川勝元と山名宗全の対立には、さらにもっと重大なことがからんできました。それは嘉吉の乱で滅亡した赤松家の再興問題でありました。普通なら将軍を弑逆(しいぎゃく)した満祐(みつすけ)のあとを復興させることはありえないでしょうが、山名の勢力が中国地方を中心に大きく伸びてきたため、足利義政としても、細川としても、これを牽制する手段として、播磨の赤松を復興させようとしたのです。

 これは宋全にとっても絶対に認めがたいことでしたが、義政は赤松満祐の弟の孫にあたる赤松政則(まさのり)に家の再興を認め、加賀の富樫家の内紛むによって召し上げた加賀半国守護職を正則に与えました。

 これによって宗全は、やがて自分の播磨守護職も奪われるだろうと感じたことは当然であり、宗全の反義政・勝元という関係は決定的となりました。
 応仁大乱の構図は、これに周知の将軍家継嗣問題、すなわち、義政が弟義視(よしみ)を養子としたあと夫人(日野)富子が実子義尚(よしひさ)を生んだことがからんで、できあがってゆきます。



参考文献

 『岩波講座日本歴史7 中世3』「応仁・文明の乱」 百瀬今朝雄(著) 岩波書店
 『応仁の乱に生きる』上・下 宮本義己(著) 日本放送出版協会
 『室町幕府と応仁の乱』 笠原一男(著) 木耳社
 
 『山名宗全』 川岡勉(著) 吉川弘文館〈人物叢書〉
 『山名宗全と細川勝元』 小川信(著) 新人物往来社
 『足利義政 - 日本美の発見』 ドナルド・キーン(著) 中央公論新社

 『室町時代』 脇田 晴子(著) 中公新書
 『室町ワンダーランド あなたの知らない「もうひとつの日本」』
        清水克行(著) 文芸春秋社
 『大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー 258)』
        清水 克行(著) 吉川弘文館
 『室町幕府解体過程の研究』 今谷明(著) 岩波書店
 『百姓から見た戦国大名』 黒田 基樹(著) ちくま新書

 『世界大百科事典』 加藤周一(編) 平凡社
 『国史大辞典』 瀬野精一郎(担当編集)  吉川弘文館
 『日本中世の世界1 中世社会の成り立ち』 木村茂光(著) 吉川弘文館
 『日本の時代史』 全30巻 吉川弘文館
 『日本史大事典』 全7巻 平凡社

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さて、日月水金には日本中世史を、火木土には哲学・思想を日記にて執筆しています。
さらに随時、旅日記(最近のものでは川崎市川崎区)や個人開示もしております。

何かの折に覗いていただけたら嬉しいなっと (⌒▽⌒)