大正時代、少年たちを虜にした講談本シリーズの文庫王 立川熊次郎の創立した立川文庫を愛するコミュニティ。
もちろん玉田玉秀斎と山田酔神をわすれていません。
1911(明治44)年に刊行の始まる立川文庫の誕生に至る経緯は、文字に定着された〈語りの芸〉が大衆的な支持を取り付け、やがて言文一致の〈文芸〉として自らを再定義していく点で、きわめて象徴的である。
四国、今治の回船問屋の女主人、山田敬は、巡業で訪れた講談師、玉田玉麟(後に玉秀斎を襲名)と駆け落ちし、養子の主人と五人の子を置いて大阪に逃れる。
玉麟の名を上げようと案じた敬は、隆盛をきわめる速記本に目を付けた。速記者と組ませ、玉麟の講談を起こした本を出し、これもあずかって玉麟は真打ちとなり、玉秀斎を襲名する。
母親の不行跡で婚家を追われた長女を大阪に呼び寄せた敬は、玉秀斎付きとなっていた速記者と娘を添わせた。だが、この結婚は二年で破綻する。
娘の離婚によって速記者を失うという危機は、新たにチームに加わった長男の阿鉄によって、乗り越えられる。博学で空想癖があったという阿鉄には、戯作者としての素質が備わっていた。阿鉄は、玉秀斎のネタを元にしながら、はじめから作品を書き起こしてしまう書き講談で、速記者の不在という穴を埋めようと考えた。
この原稿を出版したのは、姫路市勝原区宮田出身の立川熊次郎(明治11年〜昭和7年)。立川熊次郎は、明治37年(1904)、大阪に「立川文明堂」を創業。「立川文庫」は縦12.5センチ、横9センチの小型本で、携帯できる手軽さが受けて市場を拡大していった。立川文明堂の立川熊次郎が引き受け、1911(明治44)年春、立川文庫の第一巻『一休禅師』が刊行される。これが快調な売れ行きを示したことで、文庫の刊行に拍車がかかった。
執筆は、玉秀斎が提供したネタを阿鉄らがまとめ、それに玉秀斎と敬が目を通すという形で進められた。やがて敬の子は皆集まって、作業に協力することとなり、家族を母体とする物語作成集団が形成されていく。
その内容は、講談を元に自由な創作を加えたもので、特に、架空の人物である第40編の「猿飛佐助」に至って人気は頂点に達し「霧隠才蔵」らのいわゆる「真田十勇士」像は、忍術ブームを巻き起こし「立川文庫」の中で形成されていった。同時に「猿飛佐助」らは、活動写真(無声映画)やめんこ、双六、かるたなどの玩具にも取り入れられ少年たちのヒーローとなった。
創刊以来の計13年間で、立川文庫からは196点が刊行される。年平均15点の刊行を支えたのは、この集団制作体制だった。
過去には「夢をあたえた立川文庫」で公開されていたが、残念ながら現在はリンク切れ。
山田一族による集団制作体制の形成過程を紹介した図子英雄氏は、書き講談の流れを汲む作家として、中里介山、吉川英治、大佛次郎、五味康祐、柴田錬三郎、山田風太郎、隆慶一郎等を上げている。その他には椎名麟三、川端康成、松本清張など少年時代に「立川文庫」に熱中した作家も少なくない。
しかしながら、「立川文庫」の全盛期より約90年を経た現在、その実物はほとんど残っていない。大正時代の娯楽読み物として、多くは読み捨てられる運命をたどったからであろう。
資料:姫路文学館 / 青空文庫
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