『最悪邪宗・創価学会』ほどの猛毒はないにしても、天理教も害毒ある邪宗です
天理教の親神「天理王命(てんりおうのみこと)」とは、キリスト教における神とよく似ており、この世の万物万人を意のままに創造した創造主という概念になっています。
初めは「神(かみ)」と呼んでいましたが、途中から「月日(つきひ)」と変わり、後には「おや」と呼ぶようになっています。
こうした変化も不自然ですが、特に一般世間の神と区別するために、「元の神」「真実の神」「元こしらえた神」等と、親神を強調しているのも天理教ならではと思います。
ともかく、神と人とを隔絶(かくぜつ)する神人隔別のとらえ方であることは確かです。
そして面白いのは、作られるその人間も、もとはドジョウであった等と、神話「泥海古記」の中に説明していることです。
その神話では、十全の神(手抜かりのない完全な神)として次のような名前が挙げられます。
クニトコタチノミコト、ヲモタリノミコト、クニサヅチノミコト等ですが、よく見ると「古事記」「日本書紀」に出てくる神名そのままとも思えます。
ところが、その中で、クモヨミノミコトとタイショク天ノミコトは記紀に出てこないから記紀の真似ではない、と天理教では反論しています。
いずれにしても、これら十柱の神を統理し総称する神のことを天理王命だと説きます。
天理教の神とは、日本人特有の氏神(うじがみ)信仰と怨霊(おんりょう)信仰に加えて、八(や)百(お)万(よろず)の神等が底辺にあり、そこへ念仏信仰の仏教が加わり、終には伊勢信仰までもが加えられて仕上がったものとみるべきでしょう。
因縁話と陽気暮らしの理が、よくそれを物語っています。
仏の垂迹(すいじゃく)、あるいは仏道修行者を護るところの諸天善神の神観念を説く仏教とでは、凡そその意は異なります。
また、神は親として人を産むが、子供として生まれた人間は、決して親たる神にはなれない、と言っています。
その点、仏法では、「悉(しつ)有(う)仏(ぶっ)性(しょう)・悉(しつ)皆(かい)成(じょう)仏(ぶつ)」と説き、凡夫も仏も本来は同質のもの、との理もあります。
次に、天理教の教えに基づく人生観を述べてみましょう。
教祖・中山みきの教えは陽気暮らしが大前提になっています。
歌を作り、歌に合わせて皆を踊らせることも、この陽気暮らしの表現化であり、楽天主義を異常なまでに誇張させたともいえます。
人がこの世にある姿として、仏が初めて見て教えたものは「苦」でありました。
その苦を解決してこそ、人としての本当の幸せがあるとする仏教からは、天理教の陽気暮らしは強く批判されます。
つまり、人生の根本問題も解決せず、皮相的な人生観のもとに生活を謳歌しようとする思想であるからです。
天理教には「貧に落ちきれ」という人生教訓があり
?人の幸せは物・金ではない、心の安住が一番大事な事だ?
?人の心は自分が物・金をもっていたのでは理解できない、他人に与え、貧乏になりきってこそ本物の人間になれる?
と教えています。
しかし、陽気暮らしにうつつをぬかし、全国万民が貧に落ちきる運動を続けていて、国の安寧(あんねい)は計られるでしょうか。
また、個々の将来は安泰でしょうか。
それらを考える時、厳正な宗教教義でないことが十分判ります。
天理教には一貫した三世の思想はありません。
現世だけが中心です。
過去は、仏法の業を採り入れた因縁話に終始し、未来は現世に出直すための仮の世とします。
ですから、人の死を「出直し」と呼んでいます。
教祖・みきがかかわった浄土思想、即ち未来での楽しみでは遅すぎるという抵抗心が、このような徹底した現世主義を作り上げたのではないでしょうか。
「心と肉体は別の物」と説くのも天理教の特徴です。
肉体は親神から借りたもので、心だけが自分独自のものとしています。
自分の心は、本来は清く正しいはずなのだが、いつの間にか埃(ほこり)がつき、汚く、けがわらしくなってしまった。とし、その汚れた心は八つあるといいます。
「おしい(惜)・ほしい(欲)・にくい(憎)・かわい(可愛い)・うらみ(怨)・はらだち(怒)・よく(貧)・こうまん(慢)」の八つです。
この八つの埃は、天理王命に祈ることによって、ほうきで塵を払うが如く払ってもらえると教えています。
大聖人様は、人は本来仏性をもった本有(ほんぬ)の尊(そん)形(ぎょう)であり、色心も不二にして一体なもの、またその心も一念三千十界互具といわれ、煩悩・業・苦の三道は法身・般若・解脱の三徳と転ずることができる、と説かれています。
経文の「不(ふ)断(だん)煩(ぼん)悩(のう)・不(ふ)離(り)五(ご)欲(よく)」等を加えて考える時、天理教の教えの低さがよく判ります。
八つの埃とは人の五欲を指しているようですが、これらを払っただけで五欲等は取れるはずもありません。
ところが、天理教では、この埃が全ての不幸を招くともいいます。
中でも病気の根元はすべてこの埃だと断定するところから、病人を一番の布教対象にしています。
今日ある天理病院はこのような教えに深く関係しているのです。
また、天理教では「そもそも病気とは、親神が人々の悪しき心を反省させるために人間に与えた試練だ」といい、これを「身上(みじょう)」と呼んでいます。
更には、家庭の不和や事業の失敗等も、その人の反省を促すところの神意であるとし、これを「事情(じじょう)」と呼んで、すべて自分の「心得違い」からくる不幸だと教えます。
しかし、戦争や、まきぞえ事故、あるいは天災等による不幸も世の中には沢山あります。
これをすべて個人の「悪しき心のため」と片づけられてよいものでしょうか。
しかも、その中で陽気暮らしをせよとは、矛盾といわざるを得ません。
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