藤原頼長
(ふじわらのよりなが)
幼名:菖蒲若
享年37歳
生:京都
1120年・保安元年5月
死:奈良
1156年・保元元年7月14日
氏族:藤原北家嫡流
父:藤原忠実
母:土佐守藤原盛実の娘
兄:藤原忠通
主君:崇徳天皇(鳥羽天皇の第一皇子・第75代天皇)
官位:従一位左大臣
通称:悪左府・宇治左大臣
平安時代後期の貴族・廷臣。藤原忠実の次子。勤勉家。
父の藤原忠実の庇護によって兄の藤原忠通と対立、氏長者となる。
翌年、内覧となるも、久寿2年、近衛天皇の死去に際して天皇を呪詛したとの風評で鳥羽法皇の信任を失い、内覧をとめられた。
この窮地を脱するため、保元元年、崇徳上皇を擁して挙兵(保元の乱)。
しかし、敵の奇襲により敗れ、逃走の途、舟中に没した。
経史国書の勉学に熱心で、日記「台記」を著したほか、高倉邸内の書庫に和漢万巻の書を収蔵した。
台記:藤原頼長の日記12巻
原本は伝わらないが、鎌倉時代初期の古写本をはじめとする緒写本や、1517年(永正14年)三条西公条が抄録した「宇槐記抄」などから、断続的ながら、1136年(保延2年)から1156年(久寿2年)の間の記事が求められる。
奈良県・般若寺(最期の地)
京都市・愛国寺(首塚)
歴史ヒストリアで取り上げられました。
「私が死んだ後
もし魂があるとするなら
朝廷の政治を行う場にいるつもりです
もし私のことが恋しいと思った時には
朝廷の議場に来なさい
天皇のために仕事に励むことで
私の恩に報いなさい
豪華な衣服や家来の数を望んだりせず
忠実に仕事に励み
それによって人に嘲られることを
恥じてはなりません
努めなさい
努めなさい」
2012年大河ドラマ「平清盛」も始まります。
藤原頼長役(山本耕史)