シーキングザパール(Seeking the Pearl)は日本の競走馬。アメリカで生まれ、日本およびアメリカで調教された外国産馬である。1998年に日本調教馬として初めて海外のG1競走を優勝した。
1994年にアメリカで生まれ、アメリカのセリ市に上場され日本人馬主の目に留まるが主取。そののち庭先取引で購入され来日した。当時の日本競馬(特に短距離路線)は外国産馬による全盛期で、シーキングザパールのライバルの多くも外国産馬であった。
3歳となった1996年、小倉競馬場の新馬戦で7馬身差の圧勝。続く新潟3歳ステークスではスタート直後に大きく外へヨレて体勢を崩し、落馬寸前にまで追い込まれるが、それでも3着に食い込んだ。続くデイリー杯3歳ステークスはメジロブライトを突き放して快勝するも、阪神3歳牝馬ステークス(現・阪神ジュベナイルフィリーズ)では全く伸びず、メジロドーベルの雪辱を許した。当時は武豊騎手も「気難しい」と言うほどのムラ馬であった。
4歳、シンザン記念を勝利した後に当時の調教師とオーナーのトラブルから森秀行厩舎に転厩するも、そのまま重賞4連勝でNHKマイルカップまで勝ち続けた。この頃の勢いには凄まじいものがあり、行く行くは牝馬の重賞勝利数記録を更新するとの声も挙がっていた。
秋はローズステークスから始動するも距離が長かったのかキョウエイマーチを捉えられず3着となった。その後秋華賞での決戦が期待されるも、喉頭蓋エントラップメントにより喉を手術し長期休養に入った。この頃からだんだんイレ込みがきつくなる。
5歳の初戦シルクロードステークスを勝利するも、高松宮記念、安田記念は苦手の道悪に泣き敗戦。しかしその後に遠征したフランスでは、モーリス・ド・ギース賞をレコードタイムで快勝。日本調教馬初の欧州G1制覇の栄冠を手に入れた。その翌週には日本のライバルであったタイキシャトルもジャック・ル・マロワ賞を優勝、2週連続での日本調教馬による快挙はフランスを驚かせた。その後ムーラン・ド・ロンシャン賞は渋った馬場と他陣営の「ラビット(ペースメーカー)」の執拗なマークに泣き5着、スプリンターズステークスではこの競走限りで引退が決まっていたタイキシャトルを後方から差し切り意地を見せたが、伏兵マイネルラヴの2着に敗れた。
なお、日本調教馬初の欧州G1制覇の偉業を成し遂げた本馬ではあったが、この年のJRA賞の選からは漏れている。
6歳初戦でアメリカのダートG1サンタモニカハンデキャップに挑戦し4着に食い込むと、帰国後の高松宮記念、安田記念でも2、3着に入った。
その後アメリカの馬主にトレードされることとなった。日本調教で国際G1を優勝した現役競走馬としては初の国外移籍である。他には2006年にアラブ首長国連邦の国際G2と日本国内GIを優勝したユートピアがイギリスにトレードされた程度である。。
その年の秋にアメリカでG3を2戦走ったが振るわず、そのままアメリカのクレイボーンファームで繁殖牝馬生活に入った。
困ったときには