スターリングラード攻防戦
1941年、例年より早く到来した冬将軍のためモスクワ攻略を果たせなかったドイツ軍は、大きな損害を払いつつも何とか冬の戦線を持ちこたえた。1942年5月12日にバルヴェンコヴォ突出部からハリコフの奪回を図ったセミョーン・チモシェンコ元帥による攻勢を、第6軍と第1装甲軍による後方遮断で阻止したドイツ軍は、再び攻勢の時期を迎える(第二次ハリコフ攻防戦)。
もはや前年のバルバロッサ作戦のようにバルト海から黒海にいたる全戦線で大規模攻勢を行うだけの戦力はなく、マイコープ、グロズヌイ、バクーなどカフカースの油田の奪取を主目的とする南方軍集団の戦線に限定された攻勢であった。ただし、当時のソ連は石油供給をカフカースに大きく依存しており、さらに前年8月のイギリスと共同してのイラン進駐により構築されたペルシア回廊を通じての英米からのレンドリースもカフカースを経由していた。ペルシア回廊への依存度は、バレンツ海におけるPQ17船団壊滅に対するショックもあって増大することとなる。したがって、カフカースの占拠はソ連に致命的打撃を与えるとともに、ドイツには長期戦の資源をもたらし、また中立国となっていたトルコを味方につけることも期待できた。
そこで、
ドネツ川に沿いながらウクライナ東部ルハンシク州のドンバス炭田地帯を抑える。
ドン川と、カフカース方面からモスクワに向かう鉄道が交わる要衝ロストフ・ナ・ドヌを占領する。
カフカースに進撃して、マイコープおよびグロズヌイの油田を確保する。
グロズヌイで、バクー油田からアストラハンを経て航空産業が盛んなサラトフ方面に向かう鉄道を遮断する。
その一方で、補助的にドン川東岸の側面を抑え、スターリングラード付近でヴォルガ川の水上輸送路を遮断し、市内の大工場を破壊する。
という、ブラウ作戦が立てられ、ヒトラーは戦争指令第41号として4月5日に命令を下した。
しかし、手馴れた電撃戦によって目的地となる地域までの広大な土地を攻略することは、同時に広域の側面をさらすこととなる。攻略が失敗した場合は包囲殲滅されかねない危険な作戦であった。対象となる国の規模があまりに大きい場合には、効果が大きく減じられるという電撃戦の限界が見え始めていた。
ブラウ作戦発動
6月28日、フェードア・フォン・ボック元帥指揮の南方軍集団は、ギュンター・フォン・クルーゲ元帥の中央軍集団などから戦力を引き抜いて強化した上で、大攻勢ブラウ作戦を開始した。7月7日にヒトラーの命令により、ブラウ作戦の参加部隊は、ドネツ川沿いに進んでドン川を渡りカフカース地方の油田地帯を攻めるA軍集団(ヴィルヘルム・リスト元帥指揮。第17軍、第1装甲軍など兵力100万)と、その側面をドン川沿いに進みながらスターリングラードでヴォルガ川を封鎖するB軍集団(男爵マクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将指揮。第2軍、第6軍、第4装甲軍、イタリア第8軍、ハンガリー第2軍、ルーマニア3軍、ルーマニア第4軍など兵力30万)とに分けられた。
迎え撃つソ連軍は、前年の大打撃から完全に立ち直ってはいなかったが、ウラル以東やカフカースなどに疎開させた工業設備が生産を再開し、機械化部隊の戦力は急速に再建されつつあった。また、拠点の保持にこだわって包囲され大量の捕虜を出した前年の戦訓に学んで、より柔軟な守備戦術がとられるようになっていた。
スターリングラード攻防戦
1.1 ブラウ作戦発動
2 戦いの経過
2.1 A軍集団
2.2 B軍集団
2.3 スターリングラードへの攻撃開始
2.4 総攻撃と市街戦突入
2.5 ドイツ軍の人事的混乱
2.6 ソ連第62軍の抵抗
2.7 ソ連軍の大反攻と逆包囲
2.8 冬の嵐作戦
2.9 第6軍の降伏
2.10 捕虜
ナチスドイツに勝算はなかったか?
スターリングラードでのドイツ軍の敗北の原因、ソ連軍の勝因は何か?
などを話したりするトピックの「場」です。