生年月日 1953年6月19日
身長
体重 181cm
78kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1971年 ドラフト4位
初出場 1973年
最終出場 1989年
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
三田学園高等学校
近鉄バファローズ(1972 - 1989)
コーチ歴
近鉄バファローズ
大阪近鉄バファローズ(1990 - 2000, 2004)
羽田 耕一(はだ こういち、1953年6月19日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手(内野手)。
三田学園高校では1年先輩の淡口憲治と共にクリーンナップを組み、1970年の第42回選抜高等学校野球大会に出場、ベスト8まで進出している。ちなみに、淡口のさらに1年先輩には山本功児がいた。
1971年ドラフト4位で、近鉄バファローズに入団。同期入団組に佐々木恭介・梨田昌孝・平野光泰らがいる。また同世代のチームメイトとして梨田の他、吹石徳一・藤瀬史朗がいる。
入団2年目の1973年から三塁手のレギュラーポジションを獲得。この年は12本塁打を放つなど、パンチ力のある打撃で売り出す。1974年就任した西本幸雄監督の若手育成、抜擢に応え、1975年からは移籍した主砲土井正博の後を受けて、背番号3をつけた。1977年には22本塁打、75打点で、チーム二冠の成績。1979年も13本塁打1980年には自己最多の30本塁打・80打点を上げそれぞれチームのリーグ優勝に貢献した。1982年には22本塁打(栗橋茂と同数)、自己最多の85打点と再びチーム二冠の成績を上げ、永く中心選手として活躍した。
しかし、1986年から金村義明の台頭により控えに回るようになり、1988年の伝説の「10.19」では、ダブルヘッダー第2試合の10回表、一死1塁の場面で登場。この回に勝ち越さないと近鉄は優勝を逃すというシーンに、羽田は併殺打に倒れてしまう。1989年のリーグ優勝を機に現役引退。
引退後は、一軍・二軍打撃コーチ、フロントでの編成担当などを務めたが、球団合併に伴い、2005年からはオリックス・バファローズ大阪営業部に在籍し、少年野球教室「オリックス・ベースボール・アカデミー」校長も務める。2006年・2007年にはNPB12球団ジュニアトーナメントでオリックス・ジュニアの監督を務め、2007年の大会では優勝に導いた。
本人はいたって大人しい性格であったが、そのため伸び悩んでいると見た西本幸雄(1974年から1981年まで近鉄監督)によるいわゆる「羽田殴打事件(球団広報誌「近鉄バファローズニュース」1995年9月号では「ポカリ事件」と記載)」が1975年後期に発生している。阪急ブレーブスとの対戦中、阪急の投手・山口高志を攻めあぐねていたため、西本監督はナインに初球には手を出さないよう指示した。ところがその回の先頭打者だった羽田は、西本監督が指示を出していた円陣に加わらずに打席に立っていたため、指示を知らずに初球に手を出してしまい空振り、結局その打席では打ち取られてしまった。これに怒った西本監督は、その場で羽田を殴打した。このシーンには近鉄のみならず阪急の選手も一瞬動きを止めてしまったという。指示を直接聞いていない羽田を西本が殴打するのは不条理な面もあるが、西本からしてみれば羽田のふがいなさもさることながら羽田を育てきれていなかった自分への怒りが込められており、羽田も西本の自分に対する期待を切に感じていたことから、西本に反抗することなく殴打を甘んじて受けたシーンであった。
^ チームが初めてリーグ優勝を果たした1979年の広島東洋カープとの日本シリーズでは、最終戦の名場面「江夏の21球」に先頭打者として登場して江夏豊の1球目をヒット、ドラマのきっかけを作った。ストライクを取りにいった甘いボール、江夏は「あの場面、あの状況で、初球を打つか?」と回顧している。
表彰・記録
ダイヤモンドグラブ賞 (1980年)
オールスターゲーム出場:3回 (1974年、1982年、1983年。後の2回はファン投票選出)
通算1000試合出場 1981年5月2日(221人目)
通算1500安打達成:1989年8月5日、対西武15回戦(西武球場)山根和夫から
通算200号本塁打達成:1985年8月23日、対阪急17回戦(ナゴヤ球場)山沖之彦から
4打数連続本塁打(日本タイ記録) 1974年4月29日(対阪急戦)から5月1日(対太平洋戦)の2試合で達成
困ったときには