【枢】荘子から総合哲学創設のコミュです。よろしくお願いします。
ブッダと三上祐一(易経学派) 孔子学派、荘子学派との対話
〜キリスト ムハマンド との対話
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とりあえずは荘子の思想
矮小な知識では広大な知識は想像もつかず、短い寿命では長い寿命のことは及びもつかない。
至人(最高の人)には私心がなく、神人(神的な人)には功績が無く、聖人には名誉が無い。
p.46(岩波文庫 荘子)
すぐれた知恵はゆったりとのんびりしている・・・
その不動な事は誓約をしたよう[に堅固だ]というのは、その勝利を守ることについて言ったのである。(つまりは荘子は懐疑主義)
p.50
一旦この人としての形を受けたからには、それを変える事無くそのままにして生命の尽きるのを待とう。
成見を持たないことが大切。善し悪しの分別を持たないことが大切 (ここでブッダと反問)
p.54
言葉で判断をすることは良くない。
◎[善し悪しを立てるのは]真の明智を用いる立場に及ばない。
自己の本分を遂げる。悪い良いを決め付けない。
両行
p.64
無(ブッダと気が合う)ここで、三上母を思う。切なくなる。死ぬまでは親孝行。孔子の立場を尊重・境界を設けない(ブッダと反目する)・等価値観
ゆえに言葉は神ではない、ということから、キリストと反目。愛憎を批判。昔の人を素晴らしいと決め付けることはどうか?
p.66
言葉には限界がある。
p.67
(三上)わからないことはわからないこととしておくことは最高の徳なのではないか?
(三上)絶対+可能性+現実 ということがある。
自然のままに身をまかせる。
p.70
左があって右が有り、輪が立って議が起こり、分類があって区別があり、競り合いがあって争いがある。
分別は立てないのが基本。
△p.72 折衷が必要 道は名称ではなく、真の弁舌は言葉にはよらず、真の仁愛は仁としてはあらわれず、真の清廉は謙譲の形をとらず、真の勇気は逆らい争うことをしない。
荘子はわからないことはわからないこととすべきである、と言いながら、無を最高であると考えた。そこに矛盾がある。ここからは三上が荘子の代弁者たらん。「天府」「葆光」
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空が青いのはどこまでも遠く限りが無いからなのだろうか?
遠くに行くと、人体もしくは脳の中にたどりついている、ということはないか?
良い思想は、自分だけが正しい、と主張することが無くあるべきではないか?
どんな学問からも、真理に導けることこそ、良い教えとも言えるであろう。
小さい頭の人間には、微細を感じ切る能力が備わっている。ゆえに小さいからと言って阻害することは、固定概念でもある。人はそこに共感の道を生み出すべきである。