「可いか、宮さん、一月の一七日だ。來年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、
月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一は何處かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思ってくれ。」
『金色夜叉』より
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尾崎紅葉(おざきこうよう)
慶応3年12月16日(1868年1月10日)−明治36年(1903年10月30日)
日本の小説家。
縁山、半可通人、十千万堂などの号も持つ。
慶応3年(1868年)江戸芝に生れる。本名、徳太郎。
明治18年(1885年)山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。
明治22年(1889年)『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『心の闇』『多情多恨』など多数の優れた作品を発表し、幸田露伴と並称され明治期の文壇の重きをなした。
明治30年(1897年)から読売新聞上にて『金色夜叉』を書き始めるが、もともと病弱であったこともあり、明治32年(1899年)頃から健康を害し療養に入る。
明治36年(1903年)に『金色夜叉』の続編を連載(『続々金色夜叉』として刊行)したが、胃癌と診断され中断。
同年10月30日、牛込区横井町の自宅で死去。
20代で多くの優れた弟子を抱え、特に泉鏡花、徳田秋声、小栗風葉、柳川春葉の四人は藻門下(紅葉門下)四天王と呼ばれた。
江戸っ子気質で弟子たちにはやさしい半面、短気な面もありよく小言を言っていた。
その叱り方は口の悪さとユーモアがまざりあった独自のもので、弟子たちは叱られるたびに師の小言のうまさに感心していたという。
俳人としても角田竹冷らとともに、秋声会を興し正岡子規と並んで新派と称された。
◆◆主な作品◆◆
『金色夜叉』
『伽羅枕』
『二人比丘尼色懺悔』
『三人妻』
『二人女房』
『不言不語』
『多情多恨』
『青葡萄』
『心の闇』
wikiより抜粋、一部編集