15年近く逃げ倒した彼女を崇拝するコミュニティです。
〜福田和子とは〜
愛媛県松山市に生まれる。本籍は父の出身地である大分県。
幼くして両親が離婚し、母親に引き取られ愛媛県川之江市(現四国中央市)に移る。母親は自宅で売春宿を経営していた。愛媛県立川之江高等学校に入学し、2年生の途中で愛媛県立今治南高等学校に編入するが3年生の1学期に退学。
強盗罪で松山刑務所に服役中の1966年(当時18歳)、第1次松山抗争で逮捕されていた郷田会の囚人が看守を買収し、囚人女性を強姦するという松山刑務所事件が起き、福田はこの事件で被害者となった。この刑務所内強姦事件は国会にも取り上げられる大スキャンダルとなり、看守はこのスキャンダルで自殺した。
出所後、キャバレーのホステスとして働いていた1982年、松山市内で福田の同僚だったホステス(当時31歳)の首を絞めて殺害する松山ホステス殺害事件を起こし、逃亡する。
逃亡中は幾度となく偽名を使ったり美容整形を繰り返したりするなどして、全国のキャバレーを転々とする生活を始める。愛媛県警察本部が懸賞金をかけた捜査を行い、公訴時効が成立する21日前である1997年7月29日、福井市内で逮捕された。逃亡生活は5459日間にも及んだ。岡山駅まで鉄道で移送され、岡山駅からは愛媛県警が用意した車で、松山拘置所に拘置された。
松山市までの道中は捜査員と福田が乗車した特急サンダーバードや新幹線などにマスコミ関係者が同乗し、福田の周囲を取り囲むなど大騒ぎとなった。逮捕のきっかけは公訴時効が近づき大々的にワイドショーなどで報道されたために社会的関心が高まったことにあった。
松山県警察で取調べを受けた後の1997年8月18日に殺人罪で起訴された。公訴時効成立まで11時間前の起訴であった。
1999年5月31日、松山地方裁判所にて無期懲役の判決が下され控訴するも、2000年12月13日、高松高等裁判所にて控訴棄却。松山拘置所から高松刑務所に移され、収監。福田は最高裁判所へ上告したが2003年11月、上告棄却。無期懲役の刑が確定し、和歌山県和歌山市の和歌山刑務所に収監された。
2005年2月、病気で倒れ、3月10日、入院先の和歌山市内の病院にて脳梗塞のため死去。享年58(満57歳没)。