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マイルス・デイヴィス……死ぬ寸前まで伝説を作り続けた帝王の名です。
音から音へ移動する場合なども含め、音楽理論の求める音を細部まで追求し、通常の楽譜には書き込むことができないクロマティックな半音階を多用した男。
その限界の精密な音に以外を「無駄な音」と捉え、「無駄な音を一切出さない」といった方向性にも繋がっていき、メンバーにもそういった方向性を暗黙裡に求めました。
楽曲上の主な特徴は、初期においては、テーマの後、それぞれが順にソロ演奏を行い、その間バックアップとして呼応したり煽る事はあっても、アドリブ演奏を同時に二つ以上ぶつけることはせず、その後、再びテーマに戻って終わるといったジャズでの典型的なものです。
また、ビバップに限界を感じ音階にドレミが導入される以前の古い教会旋法を積極的にとりいれたアルバム『カインド・オブ・ブルー』でモードジャズの発端を開きます。
クラシックなどのアレンジも研究し、クール・ジャズや後の完全にアレンジされたジャズでその成果が発揮されましたが、モード(旋法)はさらに革新的な音楽理論でした。
ステージで観客に背を向ける事が多く批判されたりもしましたが、ケニー・ギャレットが「彼は指揮者なんだ」と擁護しているように、求道者である彼ならではの特徴でしょう。
自分の音楽をジャズと安易に定義されることを極度に嫌い、また自分がその気になれば世界一のロックバンドも作れると自負していました。
マイルス・デューイ・デイヴィス三世
1926年イリノイ州アルトン生まれ。
母は音楽の教師をしており、その影響で10代の頃からトランペットに興味を持ち演奏練習をしていた。高校時代に地元ではジャズバンドを結成、セントルイスでは大人とのバンドで活躍していた。
18才のある日、マイルスはセントルイスにチャーリー・パーカーが演奏しに来たとき偶然にもチャーリーとの共演を果たした。彼はその後直ぐにニューヨークに出てジュリアード音楽院に入学(後、中退)。後チャーリーのバンドに加わる事となった。1947年には、チャーリーやマックス・ローチのサポートを得て、初のリーダー・セッションを行う。
チャーリーの元でのビバップからキャリアは始まったが、マイルスは新たな可能性を求め、1948年に編曲家のギル・エヴァンス(勘違いされる人が多いですが天才ピアニストのビル・エヴァンスとは別です。ユダヤ系カナダ人で、画家でピアニストで編曲者。ジャズビッグバンド界に革命をもたらした一人)と出会う。ギルの協力を得て、ウェスト・コースト・ジャズの影響を受けた伝説のアルバム『クールの誕生』を制作するのです(その後もギルとは度々共同制作を行っています)!!
1954年12月24日にはセロニアス・モンクと共演します!!
モンクとマイルスは音楽に対する考え方が相容れなかったとされ、この共演は俗に「喧嘩セッション」と呼ばれていますが、実際の所は、このセッションは演出上マイルスが吹くときにはモンクに演奏しないよう、マイルスが指示したというだけであり、他ならぬモンク自身もマイルスの指示を了解していた事が判明しています。
1955年、コルトレーン、ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズというメンツで第一期クインテットを結成。同年のニューポート・ジャズフェスティバルの演奏がきっかけとなり、コロムビア・レコードと契約します。
1956年、やはり後に伝説的アルバムとなる移籍第一作『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』発表。その一方で、プレスティッジとの間に残された契約を済ませるために、アルバム4枚分のレコーディングをたった2日間で行った。24曲、すべてワンテイクであったといわれています。
1957年にはパリへ渡り、現地のジャズメンと共に、映画『死刑台のエレベーター』の音楽をラッシュに合わせて即興演奏で制作。1958年にはキャノンボール・アダレイを加えて、バンドはセクステット(6人編成)になる。同年にはキャノンボールの『サムシン・エルス』に参加。また、レッド・ガーランドが退団したため、ピアノにビル・エヴァンスを迎える。ビルはバンドにクラシック音楽(特にラヴェル、ラフマニノフ)の知識を持ち込みマイルスに影響を与えたが、黒人のピアニストを雇わなかったことでマイルスのバンドの黒人ファン等からの人種差別問題など(当時唯一の白人メンバーだった)で7ヶ月余りで脱退。その後ビルを特別に呼び戻し、代表作の一つ『カインド・オブ・ブルー』を制作。モード・ジャズの方法論を示しました。
1963年、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスがグループに参加。1964年にはウェイン・ショーターを迎え、マイルス、ウェイン、ハービー、ロン、トニーという第二期クインテットが確立。1968年前半までこのメンバーで活動した。演奏面でも作曲面でも4ビートスタイルのジャズとしては最高水準まで昇りつめた5人は、「黄金クインテット」と呼ばれています。
1968年、8ビートのリズムとエレクトリック楽器を導入した、『マイルス・イン・ザ・スカイ』を発表。その後ジョー・ザヴィヌルの協力を得て、その試みは1969年『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチェズ・ブリュー』といった作品で結実する。
これらの作品が70年代以降のフュージョンブームの方向性を示すことになったとよく言われますが、実際にその音楽を聴くと分かることだが、マイルスが志向していくのはフュージョンではなく、ロックのリズムあるいはアフリカ音楽にあるポリリズムをベースにしたファンクジャズです。
1980年以降は、絵を描くことにも没頭し、『スター・ピープル』のジャケットは自分でデザインしています。タモリがマイルスにインタビューした時、インタビュー中もずっと絵を描き続けその絵をプレゼントしたりもしています。
帝王のアルバムは今も売れ続け、現役時代を売れ行きが越えているそうです。
例えば『カインド・オブ・ブルー』は半世紀経った今も年間50万枚以上売れ続けており、その売れ行きは年々増えているとか。将来、あらゆるセールス記録が塗り替えられる可能性もあります。
マイルスと彼の音を愛する人たちに幸あれ。