どんな人間でも外向きの自分、即ちペルソナを持ちますが、より奥深くから着込んでしまう、心理的鎧を「偽りの自己」と言います。
さて、「偽りの自己」があるならば、当然、「本当の自己」とは何者であるのかとなるでしょうね。後者は、広義には仕事を終えて自宅へ戻り、ほっとする時のあの顔や感覚です。その感覚の源泉を辿れば一つとして、乳児の頃の母子関係に辿り着きます。
直接、自分の不満を満たせない赤ん坊にとって、重要なのは母親(保護者)との関係性なのです。赤ん坊の快・不快に概ね適切な感受性で接し、保護者が不満に応えてあげることで、彼若しくは彼女はバランスよく、中枢となる自我を発達させ、同時に自己存在を認識してゆきます。世界を測る基準となるのが自我機能ですから、安定的なそれを獲得するということは、世界に対する認識も安定的なものとなるとお考え下さい。
そのように優劣意識の絡まない、安定によって、積み重なり形成される感覚が「本当の自己」です。
それを持つ人間の心が、全く荒むことはない。そんなことはありませんが、感覚としての、戻る場所・帰る場所があるのですから、これは大変に心強いものとなります。
「偽りの自己」の強い人間存在には、この、心的に帰る場所・軸が無いのです。ですから、「偽りの自己」は誰かの言葉を借りて、自分らしきものを懸命に装います。物真似で塗り固められた彼らの行いとは、自分という感覚が、一番、軽薄で空虚な心的状態にあることの結果なのです。
そんな彼らの心の出発点にあるのは、誰かに服従される脅えと警戒心です。
それは昔・・・・・・、彼にとって重要だった人物、例えば、母親の要求したものであったかもしれません。彼らにとっての人間関係は、主従関係であり、優劣関係なのです。そして、成人しても尚その縦意識の感情に脅え、良いと思われるものをかき集めては、それらに対し、自らの行動や、言葉を過度になぞらえることに自然であり、「〜らしきもの」としての存在を必死で維持します。
しかしながら、その寄せ集めた良きものが、処世術に役立ったとしても、その原本となる自分自身に変わることはありません。従って、どんな社会的成功を収めたとしても、一向に満たされないのが、「偽りの自己」の同時に生み出す、深い悲しみです。模倣は、本質(本当)を超えることはないのです。
本質がその潜在力を発揮するのは、むしろ、立ち直りのプロセスにおいてです。模倣が本質に侵食を試みたとしても、本質と思しきものが本物である程に、本質の側が土壇場で模倣をエネルギーに変え、自らの肥やしにしてしまうことでしょう。そしてそれが、「本当の自己」の特徴です。
そして、「偽りの自己」にとっては、一過性の幸福感や快楽の、先にある悲しみこそが本質です。
「本当の自己」とはむしろ、言葉では無いのだと言います。言葉ではないものに、宿るのだと言います。
つまり、言葉に依存するのは、「偽りの自己」の特徴です。