北海道が誇る(いや日本かも!)ソウルバンド
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1972年バンド結成。1976年初の全国ツアー。1982年メジャーデビュー。30年に及ぶバンド歴には一言ではかたり尽くせない数々のエピソード、そして出会った数々のブラザー達。ヴォーカル澤内 明の熱いソウルと共に積み重ねて来た年輪が音となってついに2002年、20年振りの待望のCDアルバム『BROTHER』がリリースされた。
1972年10月 澤内 明(当時Dr.&Vo.)、関 ヒトシ(G)、吉田 はじめ(G&Vo.)によりBAKER SHOP BOOGIEを結成。主にブルースナンバーを中心にライブ活動をはじめる。
1974年
後藤"ヤギ"敏昭(B)と、元フィ・フィ・ザ・フリー、いずみ・たくシンガーズ等で活躍していた鈴木 ノリ(Dr)が相次いで加入。ライブ活動が盛んになる。
1975年
関東、関西のブルースバンドとのセッション・バトルも増え、特に妹尾隆一郎(Blues Harp)、当時「West Road Blues Band」 の山岸潤史(G)、ロミー木下(B)等との札幌のライブハウスでの徹夜セッションは語り草だ。
この頃、BAKER SHOP BOOGIEの存在が、日本有数の音楽雑誌「ニューミュージックマガジン」に特集記事として掲載される。
1976年
洞爺の有珠山が大噴火した翌日、BAKER SHOP BOOGIE 初の北海道外へのツアー・ライブに出発。関東、東海、関西とライブハウスを巡り、大阪の服部緑地での野外ライブで打ち上げたこのツアーで、全国のロックファンやミュージシャンに益々その名を轟かせる。
その後、鈴木 ノリ(Dr)は脱退し、替わりに鎌田勇が加入。
1977年〜
この頃の札幌では野外では「中島野音」、屋内では「大谷会館」がロックコンサートのメッカとなっており、「日なたぼっこ」「ツーアウト・フルベース」「ブルース収穫祭」などの大きなコンサートが毎年行われるようになり、BAKER SHOP BOOGIEはそのトリを務める事が多かった。
1978年9月
ライブバンドとして成熟期をむかえていたBAKER SHOP BOOGIEに、この年光栄な出来事がまわってきた。前年来日して大好評を得ていたR&Bシンガー、オーティス・クレイの札幌公演でのオープニングアクトを務める事になったのだ。本場のR&Bを前にしてのBAKERの演奏は、あのオーティス・クレイに"Brother" と言わしめた。
またこの頃、澤内 明の噂を聞き付けて訪ねて来た博多のロックバンド「ARB」のヴォーカル石橋 凌との出会いは印象的で北と南が意気投合,今なお深い親交が続いている。
1980年〜
ベースの後藤"ヤギ"敏昭が病気のためバンドから離れ一時休止状態となるが、メンバーを補充しレコーディングを目標に再出発する事となりベースに谷口ミルクを迎え、R&Bをベースにしたオリジナル曲作りに励むと言うそれまでにない新たな活動に入る。
その後はオリジナル曲を中心にしたライブを重ね、1982年、ついにメジャーデビューを果たす。この年の4月にシングル盤「ミッドナイト・ヘビー・ドランカー」を、5月に1stアルバム「BAKER SHOP BOOGIE」をビクター・インビテーションよりリリースとなる。
6月に発売記念コンサート、8月には全国ツアーを果たし活動範囲も更にグレードアップするが、ライブではオリジナルだけではもの足りず、やはり本命であるブルースやR&Bをはずす訳にはいかなかった。 そこに、一時離れていた後藤が復帰し更に、この年より正式メンバーとしてファンクバンド「ファンクス」のホーンセクション西田 哲也(Tp)、西岡 俊明(Tp)、斉藤 孝男(Ts)、ジャズバンド「イージーゴーイングジャズオーケストラ」より「高島 ガマ」(Bs)を迎えて徹底したR&Bサウンドを目指す。
1983年
更に曲作りも進化し、ホーンセクション全員もレコーディングに加わりこの年の6月、2枚目のシングル盤「恋のマイ・ホームタウン」と2ndアルバム「Hungry St.」をビクター・インビテーションよりリリース。8月には1ヶ月にも及ぶ全国ツアーを敢行。その後、関 ヒトシが脱退。これをきっかけに新 しいサウンド作りを試みて行く事になる。
この年、「トラッシュダック」で活躍していたキーボードの前野智常が加入。
1984年〜
この頃、「夢一番コンサート」(全国各地から色々なバンドがライブ巡りをしながら名古屋の森林公演野外ステージに集結、フリーコンサートを行う)に毎年出演、札幌では相変わらず上田正樹、山岸潤二等とのジョイントコンサートやイベントをこなし、1985年の大倉山ジャンプ競技場特設ステージでのコンサートでは5000人の大観衆を総立ちにさせる。新ベーカーサウンドが完成した年だ。
そして、本場のブルースマン「アルバートコリンズ」との共演や、古くから親交の深い「憂歌団」や「近藤房乃助」等のブルース系ミュージシャン達との共演を重ね澤内はシャウトし続けた。
1990年代に入り、前野が活動を東京に移すためバンドを離れるなどメンバーの入れ替えがあったが、澤内は歌い続ける。旧メンバーの「QUOTATIONS」内海謙一(Key)がサポートに回ったり、アコースティックユニットでは中国、北京でのライブを敢行。
大阪での「春一番コンサート」出演など相変わらずの活動ぶりは衰えを知らない。
しかし、やはりライブだけでは周りも納得しなくなり、CD待望論が巻起こり、澤内も曲を集め出す。そんな中、吉田等はレコーディングをふまえたアレンジにとりかかる。澤内は親交の深い「有山じゅんじ」「稲村一志」「土門則夫」等からも曲を提供してもらい、旧作のリメイクもふくめた構想で準備を進めている中、何と20年振りにオリジナルメンバーの鈴木(Dr)が復帰。アレンジにはずみがつく。
2000年
何と二十数年振りにあのオーティスクレイと札幌で共演!。「ベーカーの新曲は自分も歌いたい」とオーティスクレイに絶賛される。
その後何度かデモレコーディングを重ねついに旧メンバーである前野のプロデュースにより2002年、CD制作が具体化する。