1869年6月19日 - 1934年12月28日。
高楯村(現山形県山辺町高楯)に、久・しう夫婦の長男として生まれた。幼少のころから、近くの石川尚伯医師が開いている寺子屋「鳳鳴館」で学問の手ほどきを受け、6歳で東京の雑誌に詩文をよせるほどの神童ぶりを発揮した。その一方で、年上の子供らを部下にして隣村の子供達と石合戦をするなど、腕白ぶりを物語るエピソードもたくさん残っている。
明治15年、山形師範学校中学師範学予備科(現山形東高校)に入学したが廃校となり、明治17年、東京の司法省法学校に応募し、志願者2千数百人の難関を、最年少で、しかも2番の成績で合格した。
第一高等学校(旧制一高)を経て、(東京)帝国大学法科大学に進学した。安達青年は語学の勉強も熱心で、在学中に、フランス語・イタリア語・英語をマスターし、外国人教師の授業の通訳も勤めた。
明治25年、大学を卒業し高沢鏡子と結婚、外交官試補に合格した。翌年公使館書記生となりイタリアに赴任。海外での活躍が始まった。
明治から昭和に掛けて活躍した日本の外交官。国際法学者。後にアジア系として初の常設国際司法裁判所の裁判官、所長となる
困ったときには