民族派も市民派も一緒に日本文化の再評価!?
日本国内における最大の対立構造といえば、右と左、右翼と左翼、または民族派と市民派の対立ではないでしょうか? しかし、この対立というのは明らかに明治以降に始まったものであり、二元論的対立構造の輸入と言えます。この意味で右側におさまっている人も、左側におさまっている人も、等しく輸入された枠組みにはまり込んでいると言えるのではないでしょうか?
この対立構造の下敷きになっているのは明らかに中東欧における「一神教vs一神教」の対立プログラムではないでしょうか? 二種類の非寛容な「神」を同じ場所に同時に設定することによって構成される、鋭い対立構造。これを普及させる(って誰が?)ことによって人々は互に赦すこと妥協することを拒絶し合い、イガミ合い、争いを永久化させることが可能となります。
対立を肯定的に発想する考え方は間違いなく西洋思想(哲学)ですが、恐らくそれは西洋思想の根本的な間違いです。論理的には間違いではありませんが倫理的な大問題です。対立、分割、分析、競争によって物質文明は確かに繁栄しますが、人々は不幸になってゆきます。西洋思想(哲学)とは不幸のための思想、破滅のための思想だと思われます。そのことは現在の西洋式社会が残念ながらことごとく証明しています。
区別、分割、対立から始める思考からは本当の幸せを望むことはできません。そこで、右も左も共通の認識を共有できそうな事柄というのは、対立を無くして幸せな世界を開いていくための鍵になる可能性を秘めているような気がします。分裂した物の全体性を取り戻す鍵になって欲しいと願うばかりです。
明治以降、西洋的な対立構造は日本においてもどんどん深化し、同じ国民として一つにまとまることは不可能なくらいに引き裂かれてきました。ところが今、その二つが案外近い所ですれ違っている現象が多々観察されるようになりました。
日本古来の価値観というものは実は謙虚で平和的ですこぶるエコロジカルだと思う。だから民族的なものをさかのぼって究めていくと実は現代社会のいろいろな問題に対して興味深いヒントを提供してくれるように思う。
一方、平和やエコロジーや人権などを真正面から唱える市民運動(陰では左翼が手を引いている感も否めない)の出す答えも、意外にも古いものの見直しであったりする。
この二つの潮流それぞれに対して距離を取りながらそれを傍観していると、この二つの潮流が合流(?)してもよさそうなもんだ、と思えてしまう。しかし、民族派と市民派(あるいは右翼と左翼)は互に対立することに熱心で、合流(あるいは共闘)を「避ける」、と言うか「拒む」。その理由は、お互いの拝む神様(たとえば、宮さまとマルクス)が違うからか…。(中東及び西洋に始まり反復されている一神教(排他主義)vs一神教(排他主義)の争いが日本にも輸入されたというべきか…)
対立を維持しようとするその様を眺めてるのも滑稽なのだが、それよりも二者が合意できるテーマの存在可能性を考えるのがおもしろい。それを勝手に考察するコミュです。
トピは自由に立ててもらって結構です。