古田織部に関するコミュニティが存在していませんでしたので、勝手ながら作ってみました。
興味のある方は是非御参加くださいませ。
御挨拶は、こちらでお願いいたします。
http://
トピックは自由にお立ていただいて結構ですが、なるべく重複されませんようにお願いいたします。
古田織部は戦国時代の武将・茶人。「織部」の名は壮年期に従五位下織部正の官位を叙任したことに由来している。千利休が大成させた茶道を継承しつつ、大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。
諱は重然。諱の読みは「しげてる」だが、「しげなり」と呼ばれることもある。通称は左介。天文13年(1544年)、美濃国本巣郡山口城主・古田重安の弟で、茶人の古田重定(茶坊主の勘阿弥、還俗し「主膳重正」と改名)の子として生まれる。武将としての経歴を歩みつつ、茶人でもある父・重定の薫陶を受け、茶人としての強い嗜好性を持って成長する。後に伯父・重安の養子となる。
永禄9年(1567年)、織田信長の美濃進駐とともにその家臣として仕えた。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。永禄11年(1569年)に摂津茨木城主中川清秀の妹せんと結婚。清秀は当時の織部より身分の高い人物であり、信長が織部にある程度目をかけていたことがうかがえる。
天正4年(1576年)には山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となった。その後も羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の播磨攻めや明智光秀の丹波攻めに従軍するなど、禄高は3百貫と少ないながらも、武将として活動している。
信長死後は羽柴秀吉に仕え、天正13年(1585年)秀吉が関白になると、山城国西岡に所領3万5000石を与えられ、従五位下織部正の官位を叙任。その後、九州征伐、小田原征伐に参加し、文禄の役では朝鮮に渡海して従軍している。
天正10年(1582年)から千利休の書簡に織部の名前が見える。この間に利休と知り合い、弟子入りしたものと考えられ、のちに「利休七哲」の一人とされる。天正19年(1591年)に秀吉によって利休の追放(切腹の前段階)が決まると、利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、織部とやはり利休七哲の一人である細川忠興のみが堂々と利休の見送りを行った。利休死後は、その地位を継承するかのように豊臣家の筆頭茶人となった。
慶長3年(1598年)には嫡子重広に家督を譲り、隠居。
慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。しかし、師の利休と同じように反骨精神も旺盛で、徳川幕府の意向を無視することも少なくなかった。また、この頃の織部は茶の湯を通じて朝廷、貴族、寺社、経済界と様々なつながりを持ち、全国の大名にすら多大な影響力を与える存在にもなっており、このため家康陣営から次第にその影響力・存在を危険視されるようになる。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣のおり、織部の家来である木村宗喜が豊臣氏に内通して京に放火(混乱に乗じて家康暗殺を意図した説がある)を企んだとされる疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられた。木村の主君である織部も豊臣氏と内通しており、戦後に豊臣秀頼の遺児国松を匿ったなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後に切腹を命じられた。織部はこれに対し、一言も釈明せずに自害している。享年72。織部の子、重尚と重広も父に殉じて自害し、木村宗喜も同時に処刑されている。
織部は、利休の「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行し、利休の静謐さと対照的な動的で破調の美を確立させ、それを一つの流派に育て上げた。職人や陶工らを多数抱え、彼らに創作活動をさせ、織部焼、織部流の創始者とされている。茶道の弟子とされる人物には上田重安(上田宗箇)、小堀政一(小堀遠州)、金森可重らがある。
困ったときには