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橘逸勢

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詳細 2020年9月8日 20:24更新

空海、嵯峨天皇、とともに「日本の三筆」と並び称される、橘逸勢について、こよなく愛して止まない方、
また、その格別なテクニック、心を打つ美しい筆跡、そして、歴史の謎のとばりに覆われた神秘性・・・などなどについて、心置きなく語り合いたい人のためのコミュです。

***********************★Wikipediaより★*******************<人物>
橘 逸勢(たちばな の はやなり、延暦元年(782年)? 〜 承和9年8月13日(842年9月24日))は、平安時代の書家・官人。
橘入居の末子、永継・永名の末弟。
嵯峨天皇皇后橘嘉智子のいとこでもある。
書に秀でており、空海・嵯峨天皇と共に三筆と称されている。子は達保ら。

<経歴>
804年、最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。

842年、恒貞親王を立てようと伴健岑と画策しているのが発覚し、逮捕された(承和の変)。
両者は杖で打たれ続ける拷問を受けた後、健岑は隠岐へ流罪(後に出雲国に移されたが詳細は不詳)、逸勢は伊豆へ流罪になった。
しかし逸勢は伊豆への護送途中に、遠江板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没した(60余歳という)。

このとき、逸勢の後を追っていた娘は板築駅まできたときに父の死を知り、悲歎にくれた。

その娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた。

死後、逸勢は罪を許されて853年には従四位下を賜っている。
その際に逸勢の娘の孝行の話が都に伝わり賞賛された、と文徳実録に記載がある。

ただし、嗣子の達保に関する記述はない(系譜によると、逸勢の系統は孫の保昌、曾孫の直幹までの名が記されている)。

菅原道真、文屋宮田麻呂、早良親王、伊豫親王などの「八所御霊」と呼ばれる人々と共に祀られている。

<書家として>
在唐中、書は柳宗元に学び、唐人は逸勢を橘秀才と賞賛したという。
逸勢の真跡として確認できるものは今日ほとんど伝わっていない。
その中で、空海の三十帖冊子の一部分、『興福寺南円堂銅燈台銘』、『伊都内親王願文』が逸勢の筆とされているが確証はない。
ただ逸勢以外の書家からその書風を見出すことができないので、逸勢の筆と推定されている。

【伊都内親王願文(いとないしんのうがんもん)】
桓武天皇の第8皇女伊都内親王が、生母藤原平子の遺言により、天長10年(833年)9月21日、山階寺東院西堂に香灯読経料として、墾田十六町余、荘一処、畠一丁を寄進されたときの願文である。
楮紙に行書で68行あり、末字に「伊都」の2字がある。朱で捺された内親王の手形が25箇所ある。書風は王羲之風であるが、その中に唐人の新しい気風が含まれており、飛動変化の妙を尽くし、気象博大である。御物。


<参考文献>
『日本と中国の書史』 - (社)日本書作家協会発行 木村卜堂著
季刊墨スペシャル第12号『図説 日本書道史』 - 芸術新聞社発行 - 1992年7月
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管理人みさっちは、書に関してはドシロウトですあせあせ(飛び散る汗)
知人に勧められて「橘逸勢」を知り、恋ハートに浮かされるように、コミュを立ち上げてしまいましたあせあせ(飛び散る汗)

まだまだ不行き届きな部分は多々あるかと思いますが、徐々に工事をすすめ、『書』を愛して止まない方たちの、語らいの場、憩いの場としてご提供できればいいなと思っていますクローバー
※暫くの間は、不行き届きな面、ご容赦の程・・・(平謝りあせあせ(飛び散る汗)

ある程度、工事のメドが立つまでは、このコミュは、参加承認制と・・・するつもりでしたが、やはり、早々に、自由参加型とさせていただきます!

ご要望などございましたら「要望トピ」もしくは、管理人まで、直接メッセージくださいねるんるん

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開設日
2009年1月21日

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カテゴリ
学問、研究
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