鶴見和子(つるみ かずこ)
1918年、当時の外相、後藤新平の孫として東京で誕生。父は文筆家、政治家の鶴見祐輔。哲学者、文芸評論家の鶴見俊輔さんは実弟。66年米プリンストン大で社会学博士号取得。69〜89年まで上智大学教授。同大名誉教授。95年南方熊楠賞受賞。06年7月31日、88歳で亡くなった。
『毎日新聞』2004年(平成16年)12月16日(木曜日)夕刊2面2版
―特集WORLD 年の暮れに思う この国はどこへ行こうとしているのか―
社会学者 鶴見和子さん 隠れ里に響く 凛とした声
まともなことが通らなくなる時、戦争が始まるのよ。
(太田阿利佐)より引用。
アメリカ、日本、中国・・・研究に、講義にと世界中を飛び回ってきた国際的な社会学者、鶴見和子さん(86)。1995年12月、脳出血で突然倒れ、左半身の自由を失った。今は京都・宇治の小高い丘にある高齢者用介護付きホームの7階に住む。鶴見さんはこれを「隠れ里」と呼ぶ。
●ザ・自由人
「ここは浮世から遠く離れている。それで私は、女性で、高齢者で、しかも障害者でしょう。だからいいの、好きなことが言えるの。私はこれまでずっと、私がこう書いたらあの人はこう反論するだろう、こう書いたらこうだろうと考えながら論文を書いてきた。今はヒトに何を言われても平気、言いたいことを言う。それが自由人なの。自由人というのはとても面白いものよ。最近それが分かったの。」
自由になる右手ひとつで、車いすを上手に、ゆっくりと操りながら、小さな部屋を移動する。カーテンは白地に大好きな藍染めの、どこかユーモラスな柄だ。
名門米プリンストン大学の大学院に44歳で初の女子学生として入学。博士論文「第二次世界大戦以前以後の日本 社会変動と個人」は、そのまま大学から出版されるほど高く評価された。鶴見さんが提唱した「内発的発展論」は欧米をモデルとした「近代化論」に代わる、地域の自然や文化に根ざした新しい発展モデルを示し、途上国開発や地域おこし運動などに大きな影響を与え続けている。優れた理論を生み出すもととなった社会に対するアンテナは、今も健在だ。
「今の日本は大変よ。一番問題なのはイラク派兵。憲法では海外派兵はできないの。03年のエビアン・サミットで、小泉純一郎首相はブッシュ米大統領の隣で得意満面だった。私はテレビで見て『あれは危ない笑顔だなぁ』と思ったの。そうしたら、派兵を約束してるのね。国会でちゃんと審議しないうちによ。イラク駐留自衛隊の多国籍軍への参加も、国会論議の前に、6月の日米首脳会談で小泉首相が約束してきたの。外交政策が、世界の大国に都合のいいように、大国に一番最初に相談し、約束して、国会審議は重んじないの。国民をバカにしているってことよ。これが民主主義の国かしら」
張りのある声が、いささか大きくなった。20年前、何百人と入る上智大学の大講堂で講義を聴いた時と、少しも変わらない。教室内の私語が問題になり始めたあの時期でも、鶴見先生の授業は水を打ったように静かだった。明瞭な言葉と明せきな論理、なにより相手に伝えたい、という思いが聴衆をそらさなかった。この国の首相とは大違いだ。
●大変な時代
「今、心配なのは、米軍基地の再編。司令部の一部が神奈川・座間にきたら、米国の戦争に巻き込まれる危険が増す。憲法改悪もそうよ。新聞によると、草案では9条は残すけれど集団的自衛権は認めるとか。これは論理矛盾よ。でもそうするとどこへでも海外派兵できる。自衛隊なのか、別の名なのか、人を殺して、自分たちも殺される。世界に冠たる戦争放棄の憲法をもつ日本がよ。あのね、つまり日本の針路というものがね、日本の国民に見えないの。どこを向いてね、どこへ向かっていうことを全国民に分かるように説明してくれないの。それが、一番怖いのよ。そうして他の国、大国の大統領と相談して決めているらしいの。あなた、これからは大変な時代になる。もう私はそんなに生きない。これは自分にとっては幸せよ。だけど後は野となれ山となれじゃ無責任でしょう。だから息が続いているうちにこのことを言っておきたいの。この心配を」
●非国民と負け犬
日米開戦前、24歳の鶴見さんは米コロンビア大学にいた。若杉要特命全権公使から帰国を勧める手紙を受け取ったが、博士論文を書くため断った。すると森島守人ニューヨーク総領事は「鶴見は非国民だ」と演説したという。イラクで拘束された高遠菜穂子さんら3人が非難された時、そのことをすぐに思い出した。「まともなことが通らなくなる時、戦争が始まるのよ」。ぴしゃりと言い切った。
開戦後、第一次交換船で帰国。20代後半から40歳にかけては、雑誌「思想の科学」を支え、水俣やカナダ移民の聞き取り調査をし、両親の介護もした。父親の介護は14年間にわたった。結婚は一度もしていない。
「30代以上、未婚、子ナシは女の負け犬」とした「負け犬の遠吠え」(酒井順子著)の話をすると、「あら、じゃ私、負け犬だ」と、なんだかうれしそうに大笑いした。
「私がプリンストンに行ったのは44歳と遅かったけど、こう考えたの。40代でちゃんとやっておかなければ、50代以降は生きて行くことができないからどうしてもここで勝負しなくちゃダメだ。そう思ってがんばったの。今振り返ると、親の世話ができて私も人間になったなぁと思うし、学問もできたからこれでよかったわ。今は晴れ晴れしい気持ちよ」。まるで、後輩負け犬たちへのアドバイスのようだ。朝食と昼食は右手だけで自分でつくる。女性らしいおしゃれも忘れず、今なお大好きな着物での暮らしを守る。
「自分らしく生きる」。その自立精神は並大抵ではない。
●曼荼羅
全集「鶴見和子曼荼羅」(全9巻)歌集「回生」「花道」を出したのは、病に倒れてからだ。
「戦争は、自分の気に入らないものは暴力で排除するという論理ね。曼荼羅は古代インドの思想だけれど、敵対するものも殺したりしない。相手が『あれはいいもんだなぁ』と思うように、感化するの。対立するものが話し合い、より次元の高い新しい価値、新しい思想をつくって補い合う。違うから補い合える。ジャック・イブ・クストーというフランスの海洋エコロジストが曼荼羅と同じことをいっているのよ。クストーは、30年も海底を探検して、第二次大戦後に海底の生物の種類が減少したことを発見した。そして、生物種の少ないところは、生物が生きにくい環境であり、文明や文化も同じだと言ったの。単一の文明は滅びやすい、文明の種類が多ければ多いほど滅びにくいと」
そうすると今の世界は?
「文明が少なくなりつつあるわね、例えば、ブッシュ米大統領は、キリスト教プロテスタント原理主義が一番正しいと考えている。イスラム教は正しくない、だから敵。同じキリスト教でもカトリックのローマ法王は顧みない。法王は平和主義で『暴力によって暴力を倒して、平和を打ち立てることはできない』と、はっきり言っているの。」自分と同じでなければすべて暴力をもって排除する。これがブッシュ大統領の思想、価値観よ。近代化論は英米の近代化が一番正しい、だから世界中をアメリカ的に近代化させよう。それに屈服しないものは、みんな排除しようという思想だった。ブッシュ大統領の思想は近代化論に凄く似ている。驚くわ、『あなた、まだ近代化論なの』って」
●倒れしのちに
10月、「最後のつもりで」京都府内で講演した。約700人もの聴衆が集まった。全文は一月発売の雑誌「環」(藤原書店)に掲載予定。その講演で「死ぬのは怖くない」と語った。
「倒れてから、忘れていた和歌を詠む心がよみがえってきたの。自然や天候の変化も、常にしびれているこの体が敏感に教えてくれる。自分が提唱してきた『内発的発展論』の意味、自分の内面からわき出るものを大切にする、自然とともに生きる、ということがより深く分かったのよ。私はやりたいことをやってきて、今ゆったりとした時の流れのなかで、それまで見えなかったものを見、新しい考え方もできた。私はここまで生きられて幸せです。若くして、戦争に行って命を奪われたら、とてもこんな気持ちは味わえないでしょう」
隠れ里に響く声は、とても凛として、まるで澄んだ泉のように、耳に響いた。
(太田阿利佐)
困ったときには