VTMとはベローチェの店員を愛でる会の略称である。否、略称だった。
会員は常に可憐なVT(ベローチェの店員)を影から見つめ、支えてきた。彼女たちとの歓談のときを夢見て、会員たちは雨の日も風の日もベローチェに集い高尚な議論や猥談に明け暮れた。侃々諤々の議論に気炎を上げているその片時も会員たちは彼女たちを見守ることを決して忘れたことはなかった。
しかし、その活動にも終止符が打たれようとしている。
ベローチェを訪れる人に一杯の珈琲とともに至福の時間を与えてきたVT(ベローチェの店員)たちは惜しまれながらも遂に務めを終えてベローチェを去った。
まもなくその穴を埋めるようにして別の人間がベローチェで働き始めた。しかし穴は埋まらなかった。去っていったVT(ベローチェの店員)が残した穴はあまりに茫漠だった。
新しいベローチェの店員の淹れる珈琲の薄匂い、深みのない単調な味、なんの変哲もない色は確かに私たちの愛で続けてきた先達の淹れる珈琲となんら変わりはない。皿を片付ける手付きも私たちを迎える挨拶の声も一見するとすべては以前の儘だ。職務に従事する彼女たちは充分にベローチェの店員としての責務を全うし、先達たちの代わりを担っている。
しかし彼女たちは立派なベローチェの店員ではあるが、私たち会員の愛でる対象たるVTではないのだ。
なにをもってしてVTと判断するかは定かではない。定義もない。
すべては会員たちの感覚的な判断――愛でたいか、愛でたくないか――に委ねられている。
しかし私は確信している、彼女たちはVTにはなり得ない。なぜなら私たちは彼女たちを愛でることができないのだから。
愛でる対象を失ったVTMの行く先を憂いて私はカップを傾けた。珈琲の馥郁たる香りが鼻腔をいっぱいにする。VTの優しい微笑みが、朗らかな挨拶が私の空虚な胸を満たしてくれたあの幸せな日々を思い出した。
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