木廻。
皆さんはこの二文字を耳にしたことがあるだろうか。
人々はそれを知りつつも現に存在しないものと認識している。
『師曰く、木在る故に我在り』
この言葉は遡ると凡そ二千年前に一度日本のある伝記に記されたものであり、その伝記はかの有名な悲劇の大伐採以降行方がわからなくなってしまった。そこで生まれたのが木廻の喪失を恐れた廻法師である。法師はかつて人々の身心の拠であった木廻の存在を後世に遺すべく日本各地を巡り、迫害を受けながらも辛酸を舐める思いで数少ない信者(子廻)に教えを説いてきた。
しかし、そんな彼らの努力も虚しく時が流れるにつれて人々は伐採を繰り返し、現代に至っては人々の中から木廻は疎遠なものとなってしまった。
破滅へ向かうこの時代の危うさに身震いした師は自らの命を御削りになられてまでも弟子である木廻を容貌あるものとして人間世界へと御送りになられた。
人々は木廻を目にしたことがないと口を揃えるが、そんなことはない。それが本当ならばその方は日出づる時のみを生活しているのだろう。
人々は見えているものを見ようとしない。いや、それが見えていることを意識出来ないだけなのである。
師の言葉は今も生き続け、人々に忘れられない限り、木廻もまた生き続けるのである。
もし皆さんが少しでも彼らを理解しようと思って頂けるのなら、木のある所に行き脚を乱すことで木廻という言葉の意味を少々御わかり頂けるかもしれません。
長々と読んで頂き有難うございました。
最後に副代表として一言。
『この街が大好きだから!!』