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ファビオ・リヴェラーニ

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詳細 2013年5月10日 23:16更新

ファビオ・リヴェラーニ(Fabio Liverani, 1976年4月29日 - )
イタリア・ローマ出身、イタリア代表、パレルモ所属のサッカー選手
ポジション ミッドフィルダー MF

母親ハリマはソマリア出身、父親はイタリア人であり、両国のハーフである(国籍はイタリア)。サッカーイタリア代表初の有色人種選手として国内外で有名。ローマ出身で本人もロマニスタ(ASローマのティフォージの愛称)であることを隠さないが、ラツィオに移籍当初はその事が原因で揶揄されたこともある(ラツィオはローマと本拠地が同じであり、ライバルチーム)。



プレースタイル
恐ろしく高精度なパスを魔法のような左足から繰り出すイタリア屈指のレジスタである。パスの正確性、アイディアに限っては、世界王者にも輝いた同国代表のアンドレア・ピルロよりも上だとみられている。ドリブルは、やや腰高な印象があるが、エレガントなボール捌きや、優雅に放たれる浮き玉のロングパスは見ているものを虜にする。しかし、そのとてつもない武器を所持した故に、彼の守備能力は、お世辞にも優れているとは言い難い。そのため、監督によって好みがはっきりと分かれるプレーヤーでもある。カリアリのプリマヴェーラ(下部組織)在籍時、ヴィアレッジョの国際大会に出場した際は、セカンドトップやトレクァルティスタとしてプレーしており、現在の彼のプレースタイルは、ペルージャ在籍時にセルセ・コズミ監督による提案でポジションを下げた時に創られたと本人は言う。


来歴

下部組織時代
-1995年
ローマ出身であったが、ジョルジョ・ペリネッティ(当時パレルモのGM)に可愛がられていたため、彼がチームを替えるたびに、リヴェラーニも彼の後を追うようにしてチームを替えていった。ロディジャーニ(現・チスコ・ローマ)、パレルモ、カリアリといったチームの下部組織でプレーした。
1995-1996シーズン
当時セリエAに所属していたカリアリのプリマヴェーラに所属しヴィアレッジョの国際大会等に出場。このときのポジションは前述のようにセカンドトップやトレクァルティスタであった。後に彼を代表に招集するジョバンニ・トラパットーニ監督との出会いはこの頃である。(備考欄参照)

プロ選手時代
1996-1997シーズン
1996年、20歳時に当時セリエC1に所属していたノチェリーナに移籍。公式戦に2試合出場しプロとしてのキャリアをスタートさせる。しかし、同年12月には出場機会を求め下のカテゴリであるセリエC2所属のヴィテルベーゼに移籍。移籍後は17試合に出場し、4得点挙げている。
1997-1999シーズン
1997年から1999年の2シーズンはトレクァルティスタの選手として、2年間で62試合出場10得点を挙げる活躍をし、1999年にチームがセリエC1に昇格することに貢献している。後にリヴェラーニに多大な影響を与えたセルセ・コズミ監督は、同カテゴリに所属するアレッツォの監督をしており、リヴェラーニと対戦した際に、そのプレーに魅せられたという(後にコズミがペルージャに就任際に、当時の会長ルチアーノ・ガウッチにリヴェラーニ獲得を申請するきっかけとなった)。
1999-2000シーズン
チームはセリエC1に昇格し、リヴェラーニは25試合出場し4得点を挙げる。
2000-2001シーズン
2000年夏、ペルージャに移籍し念願のセリエAデビューを果たす(24歳でのデビューは、イタリア代表に招集された選手の中では遅咲きだといえるだろう)。同時期にペルージャに就任したセルセ・コズミ監督は、中田英寿をローマに放出後、適任者のいなかったトップ下にリヴェラーニを抜擢した。しかし、シーズン途中で、コズミ監督は前述のようにポジションを下げる事を提案した。この策は見事にはまり、日に日にリヴェラーニの評価と、彼の左足から繰り出されるパスの制度は上がっていった。このシーズンは32試合に出場、3得点しており、チームのセリエA残留に貢献している。セリエAにデビューしたことにより、イタリア全国で彼の名が認知されるシーズンとなった。
このシーズンはローマが優勝し、ロマニスタであるリヴェラーニは街に繰り出し大喜びしている。(備考欄参照)
2001-2002シーズン
2001年4月、リヴェラーニはサッカー選手としての偉大なる夢を叶えることになる。南アフリカとのフレンドリーマッチで念願のイタリア代表に招集されたのだ。当時の代表監督であったジョバンニ・トラパットーニは、リヴェラーニがフランチェスコ・トッティの控えとして機能すると考えたのだ。南アフリカ戦が行われたのは、当時、リヴェラーニにとってホームスタジアムのレナート・クーリであった。自分たちの町に代表チームがやってくることに加え、ペルージャから2選手(マルコ・マテラッツィもこのゲームが代表デビュー)がマーリア・アッズーラ(イタリア代表のユニフォームの愛称)を身につけてプレーすることに歓喜するペルージャファンで埋まったスタジアムで、スタメン出場したリヴェラーニは素晴らしいプレーを見せた。
2002年1月、代表招集にまで至ったペルージャでの活躍が認められ、前々年度にスクデットを獲得した、正真正銘のビッグクラブであるラツィオに移籍。当初、ロマニスタであり、黒人選手であった彼の獲得をラツィアーレ(ラツィオのティフォージの愛称)達の中には歓迎しない者もいた。
2002-2005シーズン
ラツィオに移籍してからの5年間はリヴェラーニにとって不遇の時代であった。4度の監督交代があり(アルベルト・ザッケローニ、ロベルト・マンチーニ、ドメニコ・カーゾ、ジュゼッペ・パパドプロ)、どの監督もリヴェラーニの攻守に極端なプレースタイルから起用法を見つけることが難しかった。出場機会が減ったリヴェラーニは、当然代表の座からも離れていくことになる。また所属クラブのラツィオは当時、1億4000万ユーロ(約195億円)の負債を抱えていることが発覚し、土壇場で破産を免れたものの、リヴェラーニの立つ瀬は厳しいものとなった。
2005-2006シーズン
シーズン開始前にデリオ・ロッシ監督が就任すると、リヴェラーニ中心のチーム作りを約束した。リヴェラーニは以前のような美しいプレーを取り戻し、チームキャプテンとして29試合に出場、1得点を挙げた。しかし、財政状況が厳しいラツィオと契約延長の交渉が上手くいかず、シーズン終了後契約満了のため移籍金フリーで移籍することになる。
2006-2007シーズン
前年度にルカ・トーニの活躍により大躍進を成し遂げたフィオレンティーナのチェーザレ・プランデッリ監督は、トーニの高さをさらに活かすために良質なレジスタを求めていた。そこに白羽の矢が立ったのがリヴェラーニである。リヴェラーニ自身も年齢的に残り少ないキャリアを全うでき、且つ、望むような給料を払えるクラブを探していたので、移籍交渉はすんなりとまとまった。カルチョ・スキャンダルにより勝ち点の減点を余儀なくされたチームをトーニ、アドリアン・ムトゥ等とともに牽引し、UEFAカップ出場圏内である5位にチームを導いた。
2007-2008シーズン
ルカ・トーニが移籍したことを受けて、所属チームのフィオレンティーナは戦術変更を余儀なくされる。その一番の被害を受けたのがリヴェラーニであった。ポスト役が不在のチームでは彼の高精度なパスの効果も半減されてしまう。チームは中盤を3センターハーフから2センターハーフへ移行しようとしており、守備での貢献が期待できないリヴェラーニは戦術的な理由で放出候補に挙げられた。しかし、プレシーズンの合宿で好調振りを披露し、プランデッリ監督に戦術的なオプションとしてチームに残留させる事を認めさせたのである。現在、監督からの信頼は厚い。

備考
幼年期は、黒人とのハーフであることで、謂れの無い差別を受けていたと本人は語っている。しかし、プロの選手として大成してからはそういった野次を受ける事が少なくなったとも語っている。
リヴェラーニの父親は、リヴェラーニが15歳のときに亡くなっている。残された母親が3人兄弟(ファビオは三男である。ちなみに長男の名はレナート、次男の名はクリスティアーノ)を育てている。次兄のクリスティアーノは父親代わりの存在だったと本人は言っている。
当時、ペルージャのルチアーノ・ガウッチ会長は安く獲得してきた無名選手を大金で売りさばく事に成功してきたが、リヴェラーニは中田英寿のケースに次ぐ成功例だったといわれている。
リヴェラーニが当時、まだ20歳であった1995-1996シーズンに、プロ契約も結んでいなかった彼はカリアリのスカウトの目に止まることになる。そのリヴェラーニの才能を見抜き、トップチームの練習に加えたのが当時カリアリを率いていたトラパットーニである。
ロマニスタである彼は、2001年にローマがスクデット(優勝)を獲得すると、ローマの街に繰り出し現地のサポーター達と共にお祭り騒ぎに参加した。当時、ローマのシンボルフラッグを背負い一般人の中で大騒ぎするリヴェラーニがTVの放送に流れ、ちょっとした騒ぎになった。その後、この年の移籍シーズンにローマのライバルチームであるラツィオに移籍が決まった際はちょっとした騒ぎでは収まらなかった。
フィオレンティーナのチームメイトであるリッカルド・モントリーヴォはリヴェラーニの事を「そのプレー技術の全てを学びたいプレーヤー」と評している。

所属クラブ
カリアリ 1995-1996
ヴィテルベーゼ 1996-2000
ペルージャ 2000-2001
ラツィオ 2001-2006
フィオレンティーナ 2006-2008
パレルモ 2008-



(以上Wikipediaより抜粋)



今シーズンからはパレルモへと移籍し新天地でいかんなく力を発揮するだろう。
そんな左足の魔術師リベラーニを応援するコミュです。

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