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日枝神社

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詳細 2024年1月9日 02:27更新

東京都千代田区永田町にある山王日枝神社のコミュニティです。

隔年で神田祭と交互に行われる山王祭(さんのうまつり)でも有名です。
初詣やご祈祷、結婚式、お宮参り、七五三などで訪れる方も多いですね。



【アクセス】
最寄駅は溜池山王(南北線・銀座線)、赤坂見附(丸の内線・銀座線)、
国会議事堂前もしくは赤坂(千代田線)、永田町(有楽町線・半蔵門線)。

お車では、首都高速霞ヶ関インターから5分ほど。駐車場完備。

開門時間 午前5時 閉門時間 午後6時(4月〜9月)
開門時間 午前6時 閉門時間 午後5時(10月〜3月)

住所:〒100-0014 東京都千代田区永田町2−10−5 日枝神社



【リンク】
日枝神社HP
http://www.hiejinja.net/jinja/index.html

日枝神社 氏子地域略図
http://www.hiejinja.net/jinja/kigan/gaisai/ujikomap.html

山王写真館
http://www.hiejinja.net/hieblog/
(日枝神社の四季を写真で紹介している、公式?blog)

日枝神社結婚式場 日枝あかさかHP
http://www.hiejinja.net/akasaka/index.html

つきじ植むら 山王茶寮
http://www.hiejinja.net/akasaka/saryo/saryokojin.html
(敷地内にある茶寮)

日枝神社 青年奉賛会HP
http://homepage3.nifty.com/hie_ujisei/
(神社の外郭団体)

東京都神社庁
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/index.html

東京都神社庁での紹介ページ
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/01_chiyoda/1001.html



【山王祭】

(以下、HPより転載)
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徳川時代、江戸城内に入御した御神輿を、三代将軍家光公以来、
歴代の将軍が上覧拝礼する「天下祭り」 として盛大をきわめ、
江戸三大祭りの筆頭として、さらに京都の祇園・大阪の天満まつりと共に、
日本三大祭りに数えられています。

(以下、wikipediaより転載)
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東京都千代田区の日枝神社の神幸祭の祭礼の呼称。
正式名称は「日枝神社大祭」。毎年6月15日に行われており、
天下祭の一つ、神田祭、深川祭と並んで江戸三大祭の一つとされている。

日枝神社は既に南北朝時代から存在したとも言われているが、
太田道灌によって江戸城内に移築され、
更に江戸幕府成立後に再び城外に移されたといわれている。
とはいえ、同社が江戸城及び徳川将軍家の産土神と考えられるようになり、
その祭礼にも保護が加えられるようになった。

元和元年(1615年、寛永12年(1635年)とする異説もある)には、
祭の山車や神輿が江戸城内に入る事が許され、
将軍の上覧を許されるようになった。天和元年(1681年)以後には、
神田明神の神田祭と交互に隔年で行われる事になった。

江戸の町の守護神であった神田明神に対して日枝神社は
江戸城そのものの守護を司ったために、幕府の保護が手厚く、
祭礼の祭には将軍の名代が派遣されたり、祭祀に必要な調度品の費用や
人員が幕府から出される(助成金の交付・大名旗本の動員)一方で、
行列の集合から経路、解散までの順序が厳しく定められていた。
それでも最盛期には神輿3基、山車60台という大行列となった。
また、後に祇園会と混同されて、江戸を代表する夏祭りとして扱われるようになった。

そんな、山王祭も天保の改革の倹約令の対象となって以後衰微し、
文久2年(1862年)の祭を最後に将軍(家茂・慶喜)が上方に
滞在し続けたまま江戸幕府は滅亡を迎えたために天下祭としての意義を失った。
続いて明治22年(1889年)を最後に市街電車の架線によって
山車の運行が不可能となった。
更に太平洋戦争の空襲によって神社が焼失し、昭和27年(1952年)まで
中断されるなど、苦難の道を歩む事になりながらも今日まで継続されている。

大祭は神田祭と交互で毎年西暦偶数年に行われる。内容は神田祭と類似する。




【由緒・歴史】

(以下、wikipediaより転載)
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日枝神社(ひえじんじゃ)は、東京都千代田区永田町二丁目にある神社。
江戸三大祭の一つ、山王祭が行われる。
旧社格は准勅祭社(東京十社)、官幣大社。

大山咋神(おほやまくひのかみ)を主祭神とし、
相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ) 伊弉冉神(いざなみのかみ)
足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る。

「歴史」
創建の年代は不詳である。
文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、
川越の無量寿寺(現在の喜多院)の鎮守である日吉社を
勧請したのにはじまるとされる。
他に、熊野那智大社の貞治元年(1362年)の文書に
「武蔵国豊島郡江戸郷山王宮」の記載があり、
これが現在の日枝神社であるとする説もある。
徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、
江戸城の鎮守とした。

慶長9年(1604年)からの秀忠による江戸城改築の際、
社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。
明暦3年(1657年)、明暦の大火により社殿を焼失したため、
万治元年(1659年)、将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、
現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する。

明治元年(1868年)11月の東京奠都の際に准勅祭社に指定され、
その後、皇城鎮護の神社とされて大正元年(1912年)には官幣大社に
昇格した。昭和20年(1945年)の東京大空襲で社殿が焼失し、
昭和33年(1958年)に再建された。




(以下、HPより転載)
★ご祭神★
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御祭神
      大山咋神(おほやまくひのかみ)

相殿に鎮まります神々
     国常立神(くにのとこたちのかみ)
     伊弉冉神(いざなみのかみ)
     足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)

主祭神の神系
     「古事記」に『大山咋神(おほやまくひのかみ)。
     又の名は山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)。
     この神は近淡海国(ちかつあふみのくに)の日枝山に坐す。
     また葛野(かづぬ)の松尾(まつのを)に坐す。
     鳴鏑(なりかぶら)になりませる神なり』とあるように、
     近江国(今の滋賀県)の日枝山(比叡山)に鎮まりましたのが
     最初で大年神(おほとしのかみ)の御子神で、別にその御名を
     山末之大主神とたたえて申し上げます。

御神徳
     大山咋神の「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に
     広く地主神として崇められ、山・水を司り、大地を支配し万物の
     成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う御神徳は広大無辺であります。
     又、近年は厄除け・安産・縁結び・商売繁盛・社運隆昌の神として
     崇敬されています。

社格
     当神社は江戸城の鎮守として徳川家の崇敬は特に篤く、将軍世嗣、
     子女及諸大名等の社参は絶えることなく、毎年正月・六月には必ず
     使いを遣わして幣を奉り、国家事ある時には必ず祈祷を修し、
     崇敬他に異なるものがありました。東京奠都の後明治元年十一月
     八日准勅祭社に、同二年七月二日祈年奉幣の列に入り、同五年
     五月八日府社に定められましたが、皇城の鎮護たる故を以て、
     同十五年一月十一日官幣中社に列せられ、大正天皇御即位に
     あたり、氏子区域内に御降誕せられたる故を以て、大正天皇御即位
     の当日、更に昇格して官幣大社に列せられ、終戦と共に社格を
     廃せられたが、宗教法人として都民の尊信を専らにしてかわること
     なく今日にいたっています。

社号
     慶応四年(明治元年)六月十一日以来、日枝神社の称号を用いる
     事となりましたが古くから「日吉山王社」「日吉山王大権現社」
     「江戸山王大権現」「麹町山王」、ひろく「山王社」と称され、
     氏子にとっては「お山」であり、一般には常に「山王さん」の名で
     親しまれて来ました。



★由緒★
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当社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を
祀り、さらに文明十年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城する
にあたり、鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威赫赫として江戸の
町の繁栄の礎を築きました。

やがて天正十八年(1590)徳川家康公が江戸に移封され、
江戸城を居城とするに至って「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として、
又、江戸市民からは「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として
崇敬されました。

二代秀忠の時の江戸城大改造の際、城内紅葉山より新たに社地を
江戸城外に定め、社殿を新築して遷祀されました。

世に元山王と称する地は今の隼町国立劇場附近です。

この時から別当神主を定め、神社の規模は広大に整い、
広く一般衆庶も参拝し得る道を開きましたが、明暦三年(1657)の
大火に社殿炎上の災に遇いました。時の将軍家綱は直ちに赤坂の
溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に充て、結構善美を尽くした
権現造の社殿を造営・遷祀して、天下奉平、万民和楽の都を守護する
祈願所として崇敬しました。

明治元年東京奠都と共に勅使奉幣が行われ、御西下御東幸に際しては
御途中御安全の御祈祷を修せしめられ、
明治二年七月天下水患にあたり勅使祈晴の御事があり、宮妃御懐妊の
際は御安産の御祈祷を修せられ、皇室典範帝国憲法の制定を始め
として開戦及び平和回復等の重大事に際しては、常に勅使参向
御奉告が行われ、畏くも大正天皇儲宮にまします時、御参拝があり、
明治天皇は御愛蔵の御太刀一振(長光)を御進献あそばされました。

萬治二年御造営の社殿は、江戸初期権現造の代表的建物として国宝に
指定されていました。昭和二十年五月戦禍に遭い、末社山王稲荷神社を
残し悉く烏有に帰しましたが、氏子崇敬者の赤誠奉仕により
「昭和御造営」の画期的な大事業が企画され、昭和三十三年六月本殿
遷座祭齋行、引き続き神門・廻廊・参集殿が逐次完成、更に末社改築、
摂社の大修築、神庫校倉の改造等を相次いで行ない、全都をあげて之を
慶賀し、昭和四十二年六月奉祝祭が先ず齋行され、
この間、昭和三十三年六月現社地御鎮座三百年祭を齋行し、
ここに昭和二十四年復興後援会発足以来十年に亘る歳月を以て、
山王台上に再び大社の偉容を拝するに至りました。

昭和五十二年七月江戸城御鎮座五百年奉賛会が結成され、
昭和五十三年六月五百年を祝する式年大祭を厳修し、
昔をしのぶ天下祭にふさわしい山王神幸祭の復元、尚記念事業として、
「日枝神社史」の刊行「宝物殿」の建築、本殿以下社殿の修繕、
境内整備等が実施されました。

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2008年9月24日

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