当コミュニティは、映画「バウンティ号の反乱」で有名な南太平洋のど真ん中にある小さな島「ピトケアン諸島」のコミュニティです。自治権を与えられたイギリス連邦の一つにも関わらず、人口がわずか50人足らずの小さな島です。
「バウンティ号の反乱」について
『背景』
バウンティ号は、タヒチ島からパンノキを西インド諸島に運ぶ任務のために、貨物船を買い上げて臨時の軍艦としたもので、軍艦としては小型だった。したがって映画題名などで用いられる「戦艦」という呼称は適切ではない。
乗組員は唯一の士官である艦長ウィリアム・ブライと上級准士官3人、准士官11人、士官候補生6人、下士官14人、水兵11人の計46人だった。ウィリアム・ブライは33歳で、以前にジェームズ・クック船長指揮下のレゾリューション号の航海長を勤め、その後、商船の乗務員として航海しており、この海域に関して経験豊かだったが、艦長になるのは初めてだった。
1787年にイギリスを出航し、喜望峰を周ってインド洋に出て、1788年10月にタヒチ島に到着した。航海中にブライは航海長のジョン・フライアを降格し、航海士(上級准士官)の1人フレッチャー・クリスチャンをNo2に抜擢している。
1789年4月までパンノキやその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在し、その期間中、クリスチャンはタヒチの女性と結婚し、多くの船員も現地生活を楽しんだ。3人の船員が脱走の罪で逮捕され、鞭打ち刑を受けた。
『反乱』
「バウンティ」号とその乗組員の辿った航跡
1789年4月4日にタヒチ島を出航し、4月28日にフレンドリー諸島(トンガ)で反乱が起きた。途中の死亡者を除き、当時の乗組員44人のうち反乱者はクリスチャン以下12人だった。ブライ艦長以下19人は救命艇に乗せられて追放され、非反乱者のうち13人は船に残された。
ブライの指揮する救命艇は41日かけて、ニューギニアとオーストラリアの間の難所トーレス海峡を通り、チモール島にたどり着いた。
一方、反乱者を乗せたバウンティ号は トゥブアイ諸島に3ヶ月滞在したが、その後、タヒチ島へ向かった。16人の船員がタヒチ島に残り、クリスチャンと8人の反乱者はタヒチ島の現地人(男6人、女11人、赤子1人)を乗せて、フィジー、クック諸島を経て、1790年1月に、イギリスの海図に載っていないピトケアン島にたどり着いた。現在バウンティ湾と名づけられた場所でバウンティ号は燃やされ、現在でもその残骸が残っている。
『その後』
1790年3月15日にブライ達はイギリスに戻り、反乱を報告した。1790年11月にパンドラ号(エドワード・エドワーズ艦長)がバウンティ号の捜索のために出航した。1791年3月にパンドラ号はタヒチ島に到着し、14人の元バウンティ号乗組員(大部分は非反乱者)を逮捕した。その後もバウンティ号の捜索を続けたが、8月30日にグレート・バリア・リーフの近くで、暗礁に乗り上げ沈没した。31人の船員と4人の囚人が死に、残った89人の船員と10人の囚人が、1792年にイギリスに戻った。10人のうち、4人が無罪、2人が有罪だが恩赦、1人が法的手続の問題で釈放され、3人が絞首刑になった。
ブライも軍法会議にかけられたが、無罪となり、職務に復帰した。彼の経歴は傷つかず、すぐに別の船プロビデンス号の艦長として、1791年に同様の任務を行い、無事成功した。しかし後に、総督として赴任したオーストラリアで現地の有力者と対立し、配下の治安部隊に反乱を起こされ軟禁されてしまう事件(ラム酒の反乱)を引き起こす。2度目の反乱勃発とあってはさすがに擁護もされず、有罪こそ免れたものの退役同然の扱いとなり、後に提督(中将)にまで昇進はするものの、事件以後は逼塞状態で余生を過ごした。
1808年にアメリカ船トパーズ号がピトケアン諸島にやってきた時、水夫ジョン・アダムスのみが唯一生き残っていた。その他の者は病気、自殺、事故、喧嘩により既に死亡していた。フレッチャー・クリスチャンは殺されたと言われるが、彼の子孫は現在も島に残っている。1825年にアダムスは恩赦となり、1838年ピトケアン諸島はイギリス領となって、現在まで続いている。
「ピトケアン諸島の概要」
『地理』
ピトケアン島はじめ全部で5つの島から成り立っている。諸島といっても一番東のデュシー島から一番西のオエノ島まで500km以上の広がりがあり、その中に5つ島が散在しているだけである。ピトケアン島以外には人は住んでいないので、実質ピトケアン島がこの植民地の全てである。
ピトケアン島は火山性(最高峰が355m)の面積4.50km2の小さな島である。島の周囲は断崖絶壁に取り囲まれており、荒波が島を叩き寄せているため海岸線はほとんど無く、岩がごろごろしている浜がほとんどである。その為、大型の船が島へ接岸するのは難しい。島の北部、海を見渡す丘の方にバウンティ号の反乱のリーダーであるフレッチャー・クリスチャンがいつも居たというクリスチャンケイブと呼ばれる洞窟がある。島の周囲にアダムズ・ロックとヤングス・ロックと言う岩石の小島がある。
気候は亜熱帯海洋性で、7月から12月は雨季である。
『文化、風土』
島民はバウンティ号の反乱に関わったイギリス人水夫とタヒチ系ポリネシア人女性との間に生まれた子孫である。
宗教はキリスト教で、島民は熱心なプロテスタントのセブンスデー・アドベンチスト教会であるため、島民はアルコール(酒)は飲まないし、タバコは吸わない。食のタブーもあり、豚肉や海老は食べないと言う。これは、反乱者達が島に住み着いてから、島での殺し合いが起きた時、反乱者の最後の生存者であるアダムズが聖書に助けを求めて以来、キリスト教の教えを熱心に現在に至るまで守っているためである。
以上、Wikipediaより抜粋
僕はこの島にはGoogle Earthで遊んでいた事をきっかけに出会いました。資料を垣間みれば負のイメージが付きまとう感じがしないでもないですが、歴史的な意味合いをいろいろ考えて、非常に不思議な魅力のある島だと思います。
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