全国のアサリ(浅利)さん集い給へ。
どのように各地へ散らばり、現世を如何様に生きてらっさるのでしょうか。
浅利家は中世の秋田で滅亡したと伝えられていますが、現に私は浅利という名を承けて今生きています。
浅利の特徴:
◆あさりちゃんと呼ばれがち。タタミという名の姉がいると思われている。
◆で、下の名前は?と問われる(女子の場合)。
◆苗字のインパクトで、下の名前を覚えて貰えない。
◆しじみとも呼ばれる(他、なにかしら海の幸系)。
◆朝里さんと間違われる。
◆口頭で名前を言う時、必要以上に「り」を強調しないと「浅井」にされてしまう。
◆家紋がやけにめでたい。又は妙にかわいい。
実名で浅利さんであることを原則的参加条件とはしますが、
当面の間、コミュニティ参加に厳密な制限は設けません。
旧姓でも新姓でも、浅利に関わりあるならば(又はあると思われるなら)どうぞご自由にご参加ください。
検索して見つけた「浅利」さん宛にコミュ開設の旨知らせています。
(メッセージ送信制限があるので、足跡付け逃げもありスミマセン)
浅利有名諸氏のファン等ということで浅利を名乗っていたというかたがいらしたら、失礼致しましたm(_ _)m
◆元を辿れば、おそらくはこの方が始祖。
浅利義成(義遠) 久安5年(1149年)〜承久3年(1221年)
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甲斐源氏の庶流浅利義成が甲斐国青島荘浅利郷に居住し、浅利氏を称したのにはじまる。
◆起源:
清和天皇(在位858〜876 石清水八幡宮建立、陵墓=水尾山陵)
貞純親王→源 経基→満仲→頼信→頼義→義清(逸見)[兄弟に佐竹・平賀]→
清光→
11男・浅利義成(義遠)通称、浅利与一。
[兄弟に光長(逸見)、信義(武田)、遠光(加賀美)、義定(安田)、清隆(平井)
義長(河内)、光義(田井)、巌尊(曽根)、義行(奈古)、信清(八代)]
1189→浅利知義
頼朝からの地頭職任命により、奥州比内へ進出。
1334
浅利六郎四郎清連
与一没後、庶流浅利氏が移住。本家の合流は16世紀。
1538
則頼
独鈷城築城
◆戦国大名
則頼
則祐(〜1562扇田長岡城で自害)、弟・勝頼による謀略説有り
1566
秋田(安東)愛季の命により鹿角谷内城を襲撃
南部・大浦(津軽)氏と秋田氏との対立
1573
秋田氏からの独立抗争
天正十一年三月、桧山城に於いて謀殺。
子・頼平は津軽為信のもとに逃れる。
1589天正十七年、南部氏が比内を攻略。
翌年、秋田実季は津軽為信と結び、奪還。津軽為信の斡旋もあって、津軽に身を寄せていた浅利頼平を比内に還住
1593
秋田氏の下風に立つことを潔よしとせず、紛争が再燃。
1594
秋田実季が上洛して調停を懇願。
4月、前田利家から浅利氏へ「隠居して比内に住み、妻子は秋田に置くべきである。また軍役は秋田並みに負担し、紛争後に築いた城は破却することを命じる」の指示。
1595〜1596
浅利vs秋田 米代川をはさんで対峙し、戦闘
1598
頼平、秀吉の決裁を仰ぐため大阪へ上洛、急死。毒殺の可能性。(浅利軍記より)
比内に残った浅利家と家臣は佐竹氏に鷹匠として仕える
◆偉人と呼ばれる浅利さん諸説
○浅利義信(1800年頃?中西派一刀流剣士/浅利道場主・千葉周作の師)@千葉県松戸
生計を立てられない時代に江戸で浅蜊を売り歩き、初心を忘れない為のちに浅利と名乗のるようになったとかなんとか。
○浅利又七郎(=義明?1800年代中盤/小野派一刀流)
山岡鉄舟に剣術を教える。
○浅利牛蘭(1600年頃 画家)
秋田県でもっとも古い日本画家とされている。鷹画派を確立。
◆かなり遠い親戚
甲斐源氏・逸見さん・武田さん・加賀美さん・安田さん・平井さん・河内さん・曽根さん・奈古さん・八代(屋代?)さん
◆お世話になったであろう
佐竹さん・津軽さん
◆お世話したらしい
芳賀さん・野呂さん・赤石さん・松尾さん
◆ゆかりの地
山梨県中央氏豊冨
秋田県大館市比内町
大館工業高校(花岡城跡地)
◆関連性未確認
浅利小学校(山梨県大月市)
島根県江津市浅利町