キハ58系気動車の系統に属する急行形気動車の中で最初に登場したもので、北海道の酷寒な気候に対応した耐寒耐雪装備を施されている。それまで蒸気機関車の牽引する急行列車が主流であった北海道において、速度向上や設備改善に実績を挙げた。
1980年代以降、赤字ローカル路線の廃止や急行列車廃止による余剰化、老朽化で廃車が進行し、2002年までに全車が運用を離脱している。
1950年代初頭、北海道の主要幹線に運転される急行列車は、すべて蒸気機関車が牽引する客車列車で、一般に鈍足であった。また北海道向けの車両は、特殊な耐寒耐雪設備を要することもあって潤沢には製作されない傾向があった。従って道内の車両数は常に不足しており、特に幹線の輸送力は逼迫していた。
1956年から製造された準急形気動車キハ55系は、1950年代後半、快適な居住性と優れた性能で成功を収めた。日本全国に準急列車のネットワークを構築する成果を上げ、一部は急行列車にも充当された。当時、北海道でも半ば本州からの借り入れの形で「アカシヤ」に充当されたが、キハ55系には元々本州向けの設計であるため耐寒耐雪対策が施されておらず、冬期の北海道での運用には適さなかった。
北海道での気動車優等列車は、1957年6月に釧網本線の釧路?川湯(現・川湯温泉)間に臨時列車として運転開始した準急「摩周」が最初である。これは普通列車用のキハ12形を用いたものであった。以後1960年頃までに、札幌地区を中心とした気動車準急網が整備されたが、それらに使用される車両はいずれも普通列車用のキハ12形やキハ21・22形のみであった。
1960年7月1日、北海道初の気動車急行列車「すずらん」が、函館?札幌間に運転を開始した。全車指定席となったこの列車は、本州から借り入れたキハ55系を使用し、函館?札幌間を途中室蘭本線・千歳線経由で、5時間で走破した。函館本線小樽経由の客車急行列車に比べて30分のスピードアップとなり、最速列車として好評を得た。だがキハ55系は北海道での冬期の使用に耐えないことから、やむなく冬を前に本州に戻され、代わって普通列車用のキハ22形で長編成を組んで「すずらん」に充当した。ともかくも「すずらん」の登場は、長距離列車における気動車の有効性を北海道内でも強く認知させたと言える。
気動車列車の高速性、快適性はキハ55系準急によって国鉄内でも広く認識され、1950年代末期になると急行列車についても気動車化を促進する気運が高まっていた。結果、キハ55系は急行用としては設備グレードがやや低いことから、1ランク上の設備を備えた急行形気動車が計画された。のちのキハ58系である。
この計画の中には北海道用の耐寒耐雪形も含まれており、特に輸送事情の逼迫した北海道向けに、本州(以南を含む)向け用のキハ58系を差し置いていち早く開発が進められることになった。こうして1961年初頭に完成したのが、キハ56系であった。
【0番台(1?47)】
1961年から翌年にかけて製造された初期形。キハ58形0番台に相当する。昭和35年度(1961年3月)に製造された最初の5両(1?5)は、車体断面形状が異なり、裾絞りが直線的であること、前照灯がやや内側に寄っていることなど、その後の量産型と異なる部分がある。
1986年にキハ53形500番台に改造された6両を除き、1987年の国鉄分割民営化までに全車廃車された。
【100番台(101?151)】
1963年?1967年まで製造された改良型。長大編成対応(キハ58系の項を参照)装備が施されており、キハ58形400番台に相当する。
のち2両がキロ59形に改造され、4両がキハ53形500番台に改造された。残りの車両のうち41両が北海道旅客鉄道(JR北海道)に引き継がれたが、2000年までに全車廃車された。
【200番台(201?214)】
1968年に製造された最終増備グループで、このタイプのみ一部を富士重工業が製造している。キハ58系の末期形の1100番台に相当する番台で、冷房装置の搭載を前提に車体断面が変更され、冷房搭載準備工事がなされており、客室屋根上にはベンチレーターが無く、冷房機取り付け穴を塞ぐ板が目立つ。また前面窓はパノラミックウインドウとなり、前面下部にはスカートが備えられた。
しかし、夏季の短い北海道の気候事情もあって、北海道の気動車急行の普通車は冷房を設置しなかったため、実際に原型のままで冷房搭載改造された例はなかった。
181系特急気動車のつばさへの投入が遅れたことから、本来ダイヤ改正前に捻出されるはずの80系を北海道へ転属させることができず、1969年10月1日から1970年2月28日にかけて、本系列を使用した代用特急「北斗」が運転された。同列車の普通車には本番台が充当され、「北斗」のヘッドマークを装着の上、使用された。
困ったときには