永禄8年(1565年)、本多正信の嫡男として生まれる。
幼名は千穂、通称弥八郎。
官位は従五位下、上野介 。
出生当時に正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、それによって三河を追放されて大和の松永久秀を頼っていたとされ、正純は大久保忠世の元で母親と共に保護されていたようです。
父が徳川家康のもとに復帰すると、共に復帰して家康の家臣として仕えました。
関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦に参加していたとされています。
父・正信譲りその才気から家康の寵愛を受け、慶長13年(1608年)には下野小山3万3千石の大名となります。
家康が駿府で大御所政治を始めると、駿府政権一の実力者・筆頭人として貿易・外交の責任者の立場へ(宣教師曰く「皇帝の外交内政顧問会議議長)。
世に「権勢無比」と謡われるも、後ろ盾の家康死後は失脚し、寛永14年(1637年)3月10日、正純は配流所の横手で死去します。
権勢無比の時代から失脚まで波乱万丈な生涯を送った正純を、
もっとみんなでワッショイしたい気持ちから作成しました。
管理人自体がまだまだ勉強中ですので至らない点は多々あると思いますが、
ご指導宜しくお願い致します。
トピックはコミュ内容にあったものでしたらご自由にお立てください。