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稲尾和久

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詳細 2022年4月3日 21:53更新

1956年、大分県立別府緑丘高等学校(現・大分県立芸術緑丘高等学校)から西鉄ライオンズに入団した(同期に畑隆幸がいる)。

入団当初は注目の選手ではなく、三原脩監督も「稲尾はバッティング投手として獲得した」と公言して憚らなかった。実際、島原キャンプでは中西太・豊田泰光・高倉照幸ら主力打者相手のバッティング投手を務めており、口の悪い豊田は「手動式練習機」とも呼んでいたが、キャンプ後半になると逆に打者が打ち取られる場面が増えたため、中西と豊田が三原に「稲尾を使ってみてほしい」と進言。

そしてオープン戦に登板したものの、スコアボードに「稲生」と間違って表示されるなど未だ無名であった。しかしここで結果を残して開幕を一軍で迎え、開幕戦(対大映ユニオンズ)で11-0と西鉄が大量リードで迎えた6回表から、河村英文の後を継いで2番手として登板、4回を無失点に抑えた。その後もしばらくは敗戦処理などで登板していたが、投手陣の故障などから登板機会が増え、最終的には1年目から21勝6敗、防御率1.06(2007年現在パリーグ記録)の好成績を残し、最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得した(ちなみにこの年、新人にして154試合全試合にフルイニング出場し180安打を記録したにもかかわらず、稲尾との直接対戦成績(18打数1安打)が決め手となり新人王になれなかったのが、後にフジテレビ系『プロ野球ニュース』のキャスターとして人気を博した佐々木信也)。

2年目の1957年からは3年連続30勝を記録し、1961年にはヴィクトル・スタルヒンに並ぶシーズン42勝をマーク。中西や豊田、大下弘、仰木彬らと共に、「野武士軍団」西鉄の黄金時代を築き上げる原動力となった。

投手としての稲尾を語る上で欠かせないエピソードは、1958年の日本シリーズであろう。読売ジャイアンツに3連敗した後の第4戦、三原監督は、第1戦、第3戦に先発した稲尾をスタメンでマウンドに上げた。そしてその試合で勝利をもぎ取ると、後の3試合でも稲尾を起用し続けて4連勝し、奇跡の大逆転日本一を成し遂げた。実に7試合中6試合に登板(うち5試合に先発、4試合完投)し、第3戦以降は5連投、更に第5戦ではシリーズ史上初となるサヨナラホームランを自らのバットで放つという、文字通り「獅子奮迅」の活躍を見せ、優勝時の地元新聞の見出し「神様、仏様、稲尾様」は、今なお稲尾の枕詞となっている。以降も日本シリーズには4回出場し、通算11勝をあげている。これは、堀内恒夫と並ぶ日本シリーズ最多勝記録である。

1962年に200勝を達成。デビューから8年連続20勝以上・史上唯一の3年連続30勝以上、同一シーズン内20連勝のプロ野球記録(1957年)を達成し、「鉄腕」の名をほしいままにした。しかし、1964年にはそれまでの酷使がたたって肩を故障。これを機に1966年リリーフに転向し、同年最優秀防御率のタイトルを獲得した。1969年限りで現役を引退。

引退翌年の1970年から、ライオンズの監督に就任した。32歳での監督就任は専任監督として最年少である。「黒い霧事件」のため次々と主力を失い、球団が西日本鉄道から太平洋クラブに売却されるという苦境の中で指揮をとり、1974年限りで退任。1978年から1980年まで中利夫監督の下で中日投手コーチを務め、藤沢公也投手を新人王に輝かせる。1984年よりロッテオリオンズ監督を務める。埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡に移転させる条件で監督要請を受諾したが、移転は行われることなく1986年限りで退任。

退任後は日刊スポーツ野球評論家・朝日放送(ABC)→RKB毎日放送の専属野球解説者を務めた。RKBでは夕方ワイド番組「今日感テレビ」にもコメンテーターとして出演した。また、プロ野球マスターズリーグの福岡ドンタクズの監督としても活躍した。1993年、野球殿堂入り。長らく沢村賞選考委員を務めていたが、2006年に委員長の藤田元司が亡くなったことを受け、同年からは委員長を務めた。

2007年10月2日、故郷の別府市に完成した別府市民球場内に「稲尾記念館」が開館した。記念館には稲尾が現役時代に使用したスパイクやトロフィー、写真などの資料が展示されているほか、現役時代の稲尾の姿をかたどった銅像も建立されている。

晩年は体調面の問題もあり現場一線から離れつつ「今日感テレビ」にはぎりぎりまで出演を続けていたが、同月30日、手足の痺れを訴え福岡市内の病院に入院。当初は検査をしても原因が判らなかったという。

2007年11月13日午前1時21分、悪性腫瘍のため死去。享年71(70歳没)。死去当日の「今日感テレビ」では急遽追悼特番が組まれた。


        【タイトル・表彰・記録】

新人王(1956年)
最多勝:4回(1957年、1958年、1961年、1963年)
最高勝率:2回(1957年、1961年)
最優秀防御率:5回(1956年〜1958年、1961年、1966年)
最多奪三振:3回(1958年、1961年、1963年 ※最多記録)
MVP:2回(1957年、1958年)
ベストナイン:5回(1957年、1958年、1961年〜1963年 ※最多タイ記録)
同一シーズン最多連勝(1957年、20連勝)
最多連勝(1957年、20連勝、松田清(元巨人)とタイ記録)
月間最多勝(1962年8月、11勝)
シーズン最多勝(1961年、42勝)
シーズン最多奪三振(1961年、353個、パ・リーグ記録)
シーズン最多登板(1961年、78試合、パ・リーグ記録)
シーズン防御率(1956年、1.06、パ・リーグ記録)
シーズン最多投球回(1961年、404回、パ・リーグ記録)
シーズン最多被安打(1963年、358、パ・リーグ記録)
入団1年目選手としての最高防御率1.06(1956年)
日本シリーズ通算完投:9(シリーズ記録)
日本シリーズ通算勝利:11(シリーズ記録)
日本シリーズ1シリーズ登板試合:6(1956年、1958年、シリーズタイ記録。2度記録したのは稲尾のみ)
日本シリーズ1シリーズ完投:4(1958年、シリーズタイ記録)
日本シリーズ1シリーズ勝利:4(1958年、シリーズタイ記録)
日本シリーズ1シリーズ投球回数:47(1958年、シリーズ記録)
日本シリーズ1シリーズ被安打:30(1958年、シリーズ記録)
日本シリーズ1シリーズ奪三振:32(1958年、シリーズ記録)
日本シリーズ1シリーズ自責点:12(1963年、シリーズタイ記録)
オールスターゲーム1シリーズ奪三振:10(1958年、2試合シリーズ記録)

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