※TOP画像はジョセフ・マッカーシー上院議員(Joseph Reymond McCarthy 1908-1957)
マッカーシズム(McCarthyism)とは、1948年頃から1950年代半ばのアメリカで起きた激しい反共産主義運動のことである。
第2次世界大戦後、米ソ両陣営の分断と対立は深刻化した。1949年、ソ連の原爆保有が明らかになると、米国内には、共産主義者への排他的な風潮が強まり、不安と敵意が渦巻いた。
そこへ、デマの猛毒を投げ込んだのが、上院議員ジョセフ・マッカシーであった。
発端は1950年の2月、彼が行った演説だった。
ー自分は今、国務省内部にいる205人の共産党員の名簿を持っている、云々。
ところが、それは、とんでもないデマだったのだ。
取り立てて実績もないマッカシーは、次の選挙までに自分の名前を世間に売り込む手段として、この問題で騒ぎ始めたのである。
思惑通り、彼の発言が上院で審議されることになると、さも多数の秘密資料をもっているかのように、鞄一杯の書類を抱えて議場に現れた。
マッカシーは、国務省にいる共産主義者の事例なるものを長々と説明したが、どれもこれも確証のないデタラメであった。何しろ一度も国務省で働いたことがない人物まで含まれていたのだ。
彼が言う数字そのものが、くるくる変わった。最初205人とされた人数は、翌日は57人になり、上院で審議した時は81人となっていた。矛盾を指摘されると、「愚劣な数字論議はやめようではないか」と開き直った。
一つ一つ検証されれば、全部、嘘だとばれる。だからマッカシーは、わざと情報を曖昧にしながら、厚顔無恥な強弁を続け”政府内に危険分子がはびこっている”というイメージだけは、強く印象づけていったのである。
マスコミは、そのデマを厳しく検証することなく、垂れ流してしまった。人々も、”まさか、上院議員が全くの虚偽は言わないだろう”と呑気に構えていた。
それが、結果的に、いかがわしいデマを粉砕することなく、かえって”市民権”を与えてしまったのである。
マッカシーはその後も、議会に設けた委員会を根城にして、無実の人に危険分子の疑惑を投げつけて、次々新たな攻撃をでっち上げ、影響力を強めていった。
著名なジャーナリストのロービアは、マッカシーの嘘をこう喝破した。
「多重虚偽」ー。
その災禍は甚大だった。
やがて政府、教育・学術機関、さらにはハリウッドまでも、デマに煽られて迫害の嵐が吹き荒れた。
事実無根のデマによって、人権を踏みにじられ、職を追われ、人生を狂わされた犠牲者が続出したのである。
この”赤狩り”が猛威をふるった時期には、全政府機関で、職員が”危険人物”かどうか素性調査が行われ、7、8千もの人が公職を追われたのである。この時流を巧みに利用し、卑劣なデマで社会を混乱させ続けたのが、マッカシーであった。
議会、国家を牛耳ってるかのように傍若無人に振舞う、マッカシーの所業に対し、上院は、遂に大多数で非難決議案を可決する。
1954年の12月のことである。つまりマッカシーのデマは、実に5年近くにわたって多くの人々を翻弄し、苦しめたのである。
参考 ●マッカーシズム
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1950年、アメリカで共産主義者の追放(マッカーシズム)が行われたが、「レッド・パージ」とは言わない。
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関連URL
■マッカーシズム(フリー百科事典Wikipedia)
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関連トピック
■「原爆ホロコースト」の実態
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