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ウィーン体制

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詳細 2020年6月28日 11:26更新

ウィーン体制とは、1814年、「会議は踊る、されど進まず」のウィーン会議以後、「諸国民の春」を経て、1856年のクリミア戦争に至るまでのヨーロッパ国際秩序。この時代は保守思想、反革命思想が体制化され、各君主国は正統主義を旗印に、革命思想、自由主義、民族主義を弾圧したが、やがてナショナリズムのうねりの中で正統主義は崩壊、諸国は産業革命と共に帝国主義への道を歩んでいくこととなった。政治の表舞台の影では、社会主義、共産主義、無政府主義といった新思想が出現し始めていた。

年表
1814年 ウィーン会議始まる
1815年 ナポレオン・ボナパルト、エルバ島脱出 ウィーン議定書締結 神聖同盟締結 四国同盟成立 ワーテルローの戦い ブルシェンシャフト成立 ナポレオン1世、セント・ヘレナ配流 第二次パリ条約
1817年 セルビア公国成立
1818年 アーヘン列国会議 五国同盟成立
1819年 カールスバート決議によりブルシェンシャフト鎮圧
1820年 スペイン立憲革命(〜1823年)、ナポリ革命(〜1821年、カルボナリの反乱)、ピエモンテ立憲運動
1821年 ギリシア独立戦争(〜1829年)
1822年 ヴェロナ会議、イギリス五国同盟より脱退 ギリシア独立宣言
1825年 イギリスで初めて鉄道開通 デカブリストの乱
1828年 イギリスで審査法廃止 南ドイツ関税同盟、中部ドイツ通商同盟結成 トルコマンチャーイ条約 第四次露土戦争(〜1829年)
1829年 ポリニャック公爵内閣成立 アドリアノープル条約
1830年 ロンドン議定書 アルジェリア出兵 フランス七月革命 七月王政(〜1848) ドイツ騒乱 ポーランド騒乱
1831年 イタリア騒乱 青年イタリア党活動開始 ベルギー王国成立
1832年 イギリスで第一回選挙法改正 ゲーテ没
1834年 ドイツ関税同盟発足
1836年 ティエール内閣
1837年 ヴィクトリア女王即位
1838年 チャーティスト運動(〜1848年)
1840年 ロンドン会議 ロンドン四国条約 ギゾー内閣
1848年 フランス二月革命、第二共和制 イタリア民族運動 ベルリン暴動(三月革命) ウィーン暴動(三月革命) メッテルニヒ失脚 フランクフルト国民議会四月普通選挙 六月暴動
1851年 ルイ・ナポレオン・ボナパルトのクーデタ
1852年 ナポレオン3世即位
1853年 クリミア戦争(〜1856年)
1856年 パリ列国会議、パリ条約、ウィーン体制崩壊

ウィーン会議
http://en.wikipedia.org/wiki/Congress_of_Vienna

ウィーン会議は、1814年9月下旬から1815年6月9日まで、オーストリアのウィーンで開催され、オーストリアの政治家クレメンス・ヴェンツェル・フォン・メッテルニヒが議長を務め、ヨーロッパの主要諸国からの大使たちの間で行われた会議であった。
その目的は諸問題を調停し、前年の春のナポレオン1世のフランスの敗北の後で大陸の政治地図を描き変えることであり、八年前の神聖ローマ帝国の崩壊による状況の変化を反映することになるとも考えられていた。前皇帝ナポレオンは1815年3月に亡命から帰国しフランスで権力を奪回したが、会議は継続し、この会議の最終決議は1815年6月18日の、ワーテルローにおけるナポレオンの最終的敗北の九日前に署名された。
厳密には、「ウィーン会議」が実際に開催されたことはなかったと言うことができるであろう。というのはこの会議は総会を一回も持たず、多くの議論は列強の間での非公式な会議において為され、より小さな国々の代表者の多くはその会議に参加していなかったからである。
この会議は、フランスと交戦国との間の和平条項を除いては、ナポレオン戦争後のヨーロッパの全体を決定するための会議であった。フランスと交戦国との間の和平は既に数ヶ月前、1814年5月30日のパリ条約によって決着しており、ブルボン君主政の復帰と、フランス国境を1792年の状態に戻すことが決められていた。その結果はフランスの人民にとっては非常に不満であり、間接的に、ナポレオンが百日天下中に権力を奪回する原因となった。

参加者

会議においては、イギリスは最初は外相のカッスルリー子爵が代表者であり、1815年2月に彼が帰国した後では、ウェリントン公爵が代表となった。そして最後の数週間においては、ウェリントンは百日天下のナポレオンと対戦するために去ったので、クランカーティ伯爵がこれに代わった。
オーストリアは外相クレメンス・フォン・メッテルニヒ侯爵と、その補佐官であるヴェッセンベルク男爵が代表者であった。
プロイセンは首相カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク侯爵と、外交官で学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトが代表者であった。
ルイ18世のフランスは、外相のシャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールが代表者であった。
ロシアの公式な代表者は外相のネッセルローデ伯爵であったが、皇帝アレクサンドル1世自身も大部分出席していた。
当初、この四つの戦勝国の代表者たちはフランスを交渉への重要な参加者から除外しようと望んでいたが、タレーランの巧みな外交手腕により、フランスは交渉の最初の数週間で「内密な会議」に入り込むことに成功した。
比較的小さい国々による連合した抵抗を引き起こさずに、いかにして彼らの仕事を行うかについて主要諸国は優柔不断であったが、そのために条約原案のための予備会議の召集へと至った。その会議にはタレーランとスペインの代表者ラブラドール侯爵も、1814年9月30日に招かれた。
会議の書記官であったフリードリヒ・フォン・ゲンツ(1764〜1832)は、「タレーランとラブラドールの介入は我々の全ての計画を完全にひっくり返した。タレーランは我々が採用した処置に反抗し、我々に対して二時間に渡ってひどく腹を立てていた。それは私が決して忘れられない情景であった。」と報告している。
当惑した同盟国の代表者たちは、彼等が準備した条約原案に関する文書は実際には何の意味も持っていないという回答をした。「それがそんなに無意味だったら、なんで貴方がたはそれに署名したんです?」とラブラドールは噛み付くように言った。
タレーランの政策は、国家的野心と同様に個人的野心によっても導かれていたが、ラブラドールとの緊密ではあるが友好的では全くないラブラドールとの関係を必要とした。タレーランはラブラドールを「オリンピアのような尊大さ」と評し、この短気なスペイン人はタレーランについて、「あのびっこが不幸にもウィーンに行くことになろうとは」と言った。
タレーランはラブラドールによって提案された追加条項を回避した。彼は12000人の「Afrancesados」(ジョゼフ・ボナパルトに対する忠誠を誓った「フランス化された」スペイン人の亡命者の事)を引き渡す気は全くなかった。というのはタレーランは彼等とうさんくさい商売上のつながりを持っていたからである。またタレーランは、スペインの公文書館、宮殿、教会、聖堂から略奪された大量の文書、絵画、美術品、水界地理学や自然史についての諸著作を引き渡すつもりもなかった。
この会議における業務の大部分は五主要国(イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリア、フランス)によって執り行われた。
いくつかの問題については、以下の諸国も参加した。
・スペイン(代表はラブラドール侯爵)
・ポルトガル(代表はペドロ・デ・ソーサ・ホルスタイン、パルメラ伯爵、アントニオ・サルダンハ・ダ・ガマ、ヨアキム・ロボ・ダ・シルヴェイラ)
・スウェーデン(代表はカール・レーヴェンヒールム)
・ドイツ問題については、ハノーファー(当時はイギリスと同君連合だった)、バイエルン、ヴュルテンベルクといった国々が参加した。ずっとフランスに対する交戦国であったイギリスのジョージ3世は、1806年の神聖ローマ帝国の廃止を承認することを拒否し、ハノーファー選帝侯として、王家の領土(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国)については別の外交官を立てていた。それは会議の結果としてハノーファー王国の設立が認められるまで続いた。このことは無視できないであろう。

条約の内容

・ロシアはワルシャワ公国(ポーランド)の大部分を与えられ、フィンランドを獲得することが認められた(フィンランドは1809年にスウェーデンから分離されて併合され、1917年まで続いた)。
・プロイセンはザクセンの五分の二、ワルシャワ公国の一部(ポズナニ大公国)、ダンツィヒ、ラインラント、ヴェストファーレンを与えられた。
・38ヶ国から成るドイツ連邦は以前の300か国から創設され、オーストリア皇帝が議長となった。オーストリアとプロイセンの領土の一部だけが、この連邦に含まれた。
・オランニェ家はオランダ共和国と南ネーデルラント(現代におけるベルギー)を、ネーデルラント連合王国並びにルクセンブルク大公国として統治することを認められた(ネーデルラントはドイツ連邦に加入しておらず、ルクセンブルクは加入していた)。
・デンマーク=ノルウェー連合は解消され、ノルウェーはスウェーデンに割譲された(同君連合)。
・スウェーデンはプロイセンにスウェーデン=ポンメルンを割譲した。
・スイスの中立が保障された。
・ハノーファーはリューネブルク公国をデンマークに割譲したが、ミュンスター司教領と以前のプロイセンの東フリースラントを獲得して拡大され、王国を形成した。
・バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン=ダルムシユタット、ナッサウといった国々の、1801年から1806年までの併合期の領土獲得の多くは承認された。バイエルンはライン宮中伯領の統治権、ナポレオンのヴュルツブルク公国、フランクフルト大公国の一部をも獲得した。ヘッセン=ダルムシュタットはヴェストファーレンをプロイセンに割譲した代償として、マインツ市を獲得した。
・オーストリアはかつてのイリュリア州のティロルとザルツブルクの支配権を取り戻し、イタリアにおいてはロンバルディアとヴェネツィア、ダルマティアにおいてはラグーサを獲得した。南西ドイツにおけるかつてのオーストリアの領土は、ヴュルテンベルクとバーデンの支配下にとどめられ、オーストリア領ネーデルラントは取り戻されなかった。
・ハプスブルク家の大公たちは、トスカーナ大公国とモデナ公国に復帰した。
・教皇領は教皇の統治下に置かれ、かつての版図を取り戻した。例外はアヴィニヨンとコンタ・ヴネサンで、それらはフランスの一部に留まった。
・イギリスはケープ植民地、南アフリカ、トバゴ、セイロン及びアフリカとアジアにおける他の様々な植民地の支配を確認された。他の植民地、例えばオランダ領東インドとマルティニークはかつての領有者に返還された。
・サルディニア王国はピエモンテ、ニース、サヴォワを取り戻し、ジェノヴァの支配権を獲得した(復活されられた共和制の短期間の公布に終止符を打った)。
・パルマ、ピアチェンツァ、グアスタッラ公国はナポレオンの皇后マリー・ルイーズに与えられた。
・ルッカ公国がブルボン=パルマ家のために創設され、マリー・ルイーズの死後、パルマを取り戻す権利を与えられた。
・ブルボン家のシチリア王フェルディナンド4世はナポリ王国の統治権を取り戻したが、ボナパルトによってナポリ王とされたジョアシャン・ミュラが、百日天下においてナポレオンを支援することを諦めた後であった。
・奴隷貿易が非難された。
・ライン川を含む多くの河川において航行の自由が保障された。

ポーランド=ザクセン危機

この会議において最も議論を呼び起こした主題は、いわゆるポーランド=ザクセン危機である。ロシアとプロイセンはある取引を主張したが、それはポーランドの分割に占めるプロイセンとオーストリアの割り当ての多くをロシアに渡し、アレクサンドルを王として、ロシアとの同君連合の独立ポーランド王国を創設するという取引であった。その代わりに、プロイセンはザクセンの全てを代償として受けることになる。ザクセン王はナポレオンをすぐに見捨てなかったために、その王位を喪失すると考えられた。オーストリア、フランス、イギリスはこの計画に賛同せず、タレーランの思いつきで、1815年1月3日に秘密条約に署名し、ロシアとプロイセンの計画の達成を妨害するために、必要ならば戦争を行うことで合意した。
この三国のいずれも特に戦争を準備したわけではないが、ロシアははったりに動じず、すぐに友好的な処置がなされた。それによってロシアはナポレオンのワルシャワ公国の大部分を「ポーランド王国」(立憲ポーランドと呼ばれた)として獲得した。しかしポズナニの地域(ポズナニ大公国)はロシアはこれを得ず、プロイセンに与えられた。そしてクラクフもロシアに与えられずに、自由市となった。プロイセンはザクセンの40%(後にザクセン州となる)を得、残りの地域を復帰したフリードリヒ・アウグスト1世が統治した(ザクセン王国)。

他の変更点

この会議の主要な結果は、1795年から1810年に併合した地域をフランスが喪失することの確認であるということからは程遠く(この事は既にパリ条約によって決められていた)、ロシアの拡大(ワルシャワ公国の大部分の獲得)とヴェストファーレンと北ラインラントを獲得したプロイセンの拡大であった。ドイツにおける、神聖ローマ帝国(1806年に消滅)の300近い諸国から、ずっと扱いやすい39ヶ国への統合が確認された。これらの諸国は、プロイセンとオーストリアの主導権の下、緩やかなドイツ連邦へと形成された。
この会議への代表者たちはその他の数多くの領土変更を行った。ノルウェーはデンマークからスウェーデンに移されたが、このことは民族主義運動を刺激し、1814年5月17日に、短命なノルウェー王国の創設を導いた。オーストリアは北イタリアにロンバルディア=ヴェネツィアを獲得し、北・中央イタリアの残りの部分のほとんどはハプスブルク王朝(トスカーナ大公国、モデナ公国、パルマ公国)に渡った。教皇は教皇領を再び得た。ピエモンテ=サルディニアは本土における領土を再び得た上に、ジェノヴァ共和国の支配権も得た。南イタリアにおいては、ナポレオンの義兄弟であるジョアシャン・ミュラが元々ナポリ王国を領有することを認められていたが、百日天下においてナポレオンを支援したことにより、彼は廃位されてブルボン家のフェルディナンド4世が復位した。
広大なネーデルラント連合王国はオランニェ公のために創設され、かつての連合州や以前オーストリアが統治していた南ネーデルラントの領土を含んでいた。より重要でない領土の調整が他にもあり、ドイツの王国であるハノーファー(東フリースラントをプロイセンから、また他の北西ドイツにおける様々な領域を獲得した)やバイエルン(ライン宮中伯領とフランクフルトを獲得した)の大規模な領土獲得などがそれである。リューネブルク公国はハノーファーからデンマークに移され、スウェーデンのポンメルンはプロイセンに併合された。スイスは拡大され、その中立は保障された。
この条約はポルトガルのオリベンサ市への権利を認めなかったが、代わりにこの条約では、スペインとポルトガルの両国における「完全で永遠な調和」を保障するために、この街の主権について両国が交渉すべきであると言明する公的な宣言もなされた。しかしスペインはこの交渉を始めようとは決して望まなかった。イギリスはネーデルランとスペインに対する代償として西インドの一部を獲得し、セイロンとケープ植民地における、かつてのオランダの植民地を保ち、マルタとハイリゴラントも維持した。パリ条約において、イギリスはイオニア諸島とセーシェルの保護権を獲得した。

後世からの批判

ウィーン会議は19世紀やより最近の歴史家から、民族主義と自由主義の衝動を無視したこと、大陸に抑制的な反動を課したことについてしばしば非難された。ウィーン会議は保守秩序として知られることとなるものにとって不可欠であり、それにおいて平和と安定性は、アメリカとフランスの革命に結びついた自由と市民権の代償として得られたのであった。
しかし20世紀において、多くの歴史家はこの会議の政治家達を賞賛するようになってきている。その政治家たちの業績は、ヨーロッパ全体の戦争を百年近く(1815〜1914)も防いできたのであった。これらの歴史家のうちの一人がヘンリー・キッシンジャーであり、彼の博士論文はウィーン会議についてであった。1918年のパリ平和会議の開催に先立って、イギリス外務省はウィーン会議の歴史を、どのようにして公平な成功裏の平和を達成するかを、自身の代表者の模範として参照したのであった。加えて、この会議の決定は五列強(フランス、イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン)によってなされ、ヨーロッパの全ての国々がこの会議において権利を拡張できたわけではなかった。例えば、イタリアは単なる「地理的表現」となったが、というのは異なった諸国の支配下において、8ヶ国に分割されたからである(パルマ、モデナ、トスカーナ、ロンバルディア、ヴェネツィア、ピエモンテ=サルディニア、教皇領、ナポリ=シチリア)。一方でポーランドはこの会議の後でロシアの影響下に入ることとなった。五列強が行った調停は最終的には将来の議論を呼ぶこととなった。ウィーン会議はヨーロッパ諸国の均衡を保ったが、大陸における革命運動の広がりを食い止めることはできなかった。


☆バチカン 教皇庁
ピウス7世 レオ12世 ピウス8世 グレゴリウス16世 ピウス9世
エルコール・コンサルヴィ枢機卿

☆オーストリア帝国
ハプスブルク=ロートリンゲン家
フランツ1世 フェルディナント1世 フランツ・ヨーゼフ1世 カール大公 エリーザベト皇后
クレメンス・メッテルニヒ侯爵 ゲンツ
ロンバルディア、ヴェネツィア獲得 ドイツ連邦

☆ロシア帝国
ロマノフ家
アレクサンドル1世 ニコライ1世 アレクサンドル2世
ネッセルローデ伯爵 ラズモフスキー伯爵
フィンランド大公国 ベッサラビア獲得 ポーランド立憲王国 第四次ポーランド分割

☆フランス王国
ブルボン家 オルレアン家
ルイ18世 シャルル10世 ルイ19世(アングレーム公) アンリ5世(ボルドー公、シャンボール伯) マダム・ロワイヤル ベリー公 ベリー公妃
タレーラン=ペリゴール伯爵 ポリニャック公爵
セネガル獲得 復古王政 ブルボン正統主義
ルイ・フィリップ1世

☆グレートブリテン王国 イングランド 大英帝国 イギリス
ハノーヴァー家
ジョージ3世 ジョージ4世 ウィリアム4世 ヴィクトリア女王
ウェリントン公爵 カスルリー子爵
マルタ島、セイロン島、ケープ植民地獲得

☆スペイン王国
ブルボン家
フェルナンド7世 イサベル2世

☆ナポリ王国(両シチリア王国)
ブルボン家
フェルディナンド1世 フランチェスコ1世 フェルディナンド2世

☆プロイセン王国
ホーエンツォレルン家
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 フリードリヒ・ヴィルヘルム4世
カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク伯爵 ヴィルヘルム・フォン・フンボルト

☆オランダ王国(ネーデルラント王国)付ルクセンブルク大公国
オラニエ=ナッサウ家
ウィレム1世 ウィレム2世 ウィレム3世

☆ベルギー王国
ザクセン=コーブルク=ゴータ家
レオポルド1世

☆サルデーニャ王国(ピエモンテ サルディニア サルジニア王国)
サヴォイア家
ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世 カルロ・フェリーチェ カルロ・アルベルト ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世

☆オスマン=トルコ帝国
オスマン家
マフムト2世 アブデュル・メジト1世

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開設日
2007年7月15日

6155日間運営

カテゴリ
学問、研究
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