ルイ16世 ルイ十六世 ルイXVI世 ルイ??世
ウィキペディアより引用
誕生
1754年8月23日、父ルイ・フェルディナン王太子、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)の三男ルイ・オーギュストとして誕生。ベリー公となる。1760年9月8日、ヴォギュヨン公爵が家庭教師となる。1761年の復活祭の日、兄ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフが結核で死亡し、1765年に父の死によりフランス王太子となった。
婚姻
長年敵対してきたブルボン家とハプスブルク家の間の和議を結ぶため、オーストリアのマリア・テレジアにより娘マリア・アントーニア(Maria Antonia)とブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフとの政略結婚が画策されていたが、1761年のルイ・ジョゼフ死去により、1763年5月、ルイ・オーギュストとの結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣された。結婚の反対者であったルイの父が1765年に死亡した後の1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿にて王太子ルイ・オーギュストとマリア・アントーニアの結婚式が挙行され、王太子妃はマリー・アントワネットとなった。
即位
20歳時1774年5月10日フランス国王となり、1775年、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行なう。
1775年5月、パリで食糧危機に対する暴動が起き、ヴェルサイユ宮殿にも8千人の群集が押し寄せた。この際、国王はバルコニーに姿を現し、民衆の不満に答えている。
1777年4月、ルイ16世は先天的性不能の治療を受けた。1778年長女マリー・テレーズ、1781年長男ルイ・ジョゼフ(夭折)、1785年次男ルイ・シャルル(後のルイ17世)、1786年次女マリー・ソフィー・ベアトリス(夭折)が誕生する。
政治改革
ルイ14世、ルイ15世の積極財政の結果を受け継いだため、即位直後から慢性的な財政難に悩まされ続けた。それにも関わらず、イギリスの勢力拡大に対抗してアメリカ独立戦争に関わり、アメリカを支援するなどしたため、財政はさらに困窮を極めた。一方でテュルゴーやネッケルなど、経済の専門家を登用して改革を推進しようとした。また1780年には拷問の廃止を王令で布告するなど、人権思想にも一定の理解を示している。1783年には名士会の開催と三部会招集の布告を行なった。少なくとも彼は、政治に積極的に関わり、フランスの変革に努力を注いでいたのである。しかしこの改革は抜本的な変革にはいたらず、また財政の決定的な建て直しにはおよばなかった。保守派貴族は彼の改革案をことごとく潰し、結局改革は挫折した。
なお、アメリカ独立戦争を支援したことから、「建国の父」たちにはルイ16世に崇敬の念を抱く者が多かった。
革命
パリへの帰還貴族層に対抗する窮余の策として招集した三部会は思わぬ展開を見せ、平民層を大きく政治参加へ駆り立て、結果的に1789年7月14日のバスティーユ襲撃に始まるフランス革命を呼び起こした。国民議会の封建制廃止などの要求に対して、ルイ16世は「私はけっして私の僧侶と私の貴族たちを剥ぎ取られることに同意しないだろう」と強硬な姿勢を崩さなかった。10月、20万人の群集によるヴェルサイユ行進に際しては、議会の代表団に際して食糧の放出を裁可している。この後、「国王万歳」、「国王をパリへ」の叫び声があがり、パリに連行されることになる。
ルイ16世は本心では革命の進展を望んでいなかったため、1791年に家族とともにフランス脱出を企てたが、ヴァレンヌで発見され、捕らえられるというヴァレンヌ事件を起こした。ただちにパリへ護送され、以後テュイルリー宮殿に軟禁された。
1792年6月、オーストリアなどによる対仏戦争の最中、デュムーリエが国防大臣を辞任する際、宣誓忌避僧に対する法案に拒否権を行使し続ける国王に対し、「僧たちは虐殺されるでしょう。そしてあなたも…」と語った際、「私は死を待っているのだ。さようなら。幸せでいるように」と述べたという。6月20日、群集がテュイルリー宮に押し寄せた際、そのリーダーが王に誠意ある態度をもとめ、幾人かが槍を王に向け振り回した。喧騒の中、王は冷静に次のように述べた。「私は憲法と法令が私に命じていることをしているにすぎない」。続く8月10日事件で王権を停止され、テュイルリー宮からタンプル塔に幽閉された。
刑死
ルイ16世の処遇をめぐって、処刑を求めるジャコバン派と裁判に慎重なジロンド派は対立した[1]。膠着状態の中、25歳の青年サン=ジュストが、人民が元々有していた主権を独占した国王は主権簒奪者であり、共和国においてはその存在自体が罪として処罰されるべきであると演説し、ジロンド派を窮地に陥れた[2]。これは後世に「サン=ジュストの処女演説」と呼ばれる。
1793年1月14日、国民公会はルイ16世の扱いを決定する投票を行った。各議員はまず賛成693対反対28(棄権5)で有罪を認定した[3]。ジロンド派は、公会の判決は人民投票で可否を問われなければならないと主張したが、これは292対423(欠席29、棄権5)で否決された[4]。そして、刑罰を決める投票が行われ、387対334で死刑が決まった[3]。もっとも、死刑に賛成した387人の内26人は執行猶予を求めており[3]、この26名を死刑反対票に加算するとすれば、賛成361対反対360となり1票の僅差で処刑が確定したことになる。これが俗に「わずか1票差で国王は処刑された」と言われる由縁である。1793年1月21日シャルル=アンリ・サンソンによりギロチンで斬首刑にされた。
デュマは処刑当日の様子を次のように記述する。朝、二重の人垣をつくる通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発するものはなかった。10時に王は断頭台のもとにたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られたのち、ゆっくり階段をのぼった。王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。太鼓の音がその声をとざす。王は傍らの人々にこう言った。「私は私の死をつくり出した連中を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」。
執行後は妻のマリーと共に歴代のフランス君主の埋葬地であるサン=ドニ大聖堂に葬られた。
評価
ルイ16世は狩猟と錠前造りが趣味で妻マリー・アントワネットに操られる無能な国王として描かれることが多い反面、国民の境遇に心を悩ませる心優しい王としても描かれることがあり、その実像は時代に翻弄された悲劇の王であったといえる。当時のフランス国民(パリ市民)にもヴァレンヌ事件までは絶大な人気を得ており、王の処刑の時も嘆く向きが少なくなかったと言われる。