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本庄繁長

本庄繁長

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詳細 2023年8月18日 09:26更新

本庄 繁長(ほんじょう しげなが)

越後国岩船郡小泉庄の本庄城主。本庄房長の子。母は揚北衆の鮎川清長の室と姉妹関係にあったとみられている。揚北衆の一人で上杉氏の重臣。上杉氏の会津転封後は守山城と福島城の城代を務めた。

生誕:天文8年12月4日(1540年1月12日)
死没:慶長18年12月20日(1614年1月29日)
改名:千代猪丸(幼名)→繁長
別名:弥次郎(通称)、雨順斎全長(法号)、鬼神 (渾名)
戒名:憲徳院殿傑伝長勝大居士
墓所:長楽寺(福島県福島市)
官位:越前守
主君:上杉謙信→景勝
藩 :出羽米沢藩士
氏族:本庄氏
父母 父:本庄房長 母:鮎川清長室の姉妹
兄弟:女子(山本寺勝長室)
妻 :正室:上杉景信の娘
継室:須田満親の娘
側室:大川忠秀の娘
子 :顕長、充長、長房、弥吉、久長、重長、長明、長能、利長、
   左源太、娘(福王寺元繁室)、娘(早世)、娘(黒川為実室)、
   娘(石川頼房室)、娘(須田満統室)、娘(土肥正則室)、
   娘(井上綱満室)、娘(中条帯刀室)、娘(栗林久頼室)、
   娘(綱島頼親室)、娘(早世)

天文8年(1540年)越後国の国人・本庄房長の子として誕生。幼名は千代猪丸。

繁長が生まれる直前、父・房長が死去した。房長を失った本庄家臣団は遺児・千代猪丸を当主に立てたものの、房長の弟・小川長資をその後見人として認めざるを得ず、本庄氏の実権は長資の手に落ちた。天文20年(1551年)父の13回忌の法要が開かれた耕雲寺で千代猪丸は長資を捕えて自害に追い込み、実権を取り戻した。まだ幼少ながら「気性剛強で勇猛」と評され、程なく元服し繁長と名を改めた。

天文22年(1553年)4月、長尾景虎(後の上杉謙信)から繁長へ信州の情勢を伝える書状が出された。これは信州を破竹の勢いで進撃している武田晴信の動きを伝えることで越後も危うくなっているという状態を、未だ服属していない繁長に伝え、いち早く傘下に入ることを促すためであると考えられる。同年8月、繁長は景虎に拝謁して家臣となったとされる。

永禄2年(1559年)景虎は2度目の上洛を果たした。この壮挙を祝って諸将が太刀を贈呈した目録「侍衆御太刀之次第」によれば、直太刀の衆として一門の古志長尾・桃井・三本寺の名があり、次に披露太刀の衆として越後諸将の名が記され、本庄繁長は中条藤資につぐ第2位に名がある。その順序は城中における各将の座席の関係によるものと考えられるので、当時の上杉家中における繁長の地位がいかに高いものであったかを端的に示したものといえよう。

永禄3年(1560年)3月、景虎は越中に攻め入り富山城を陥落させ、8月には、関東に軍を進め北条氏康軍と合戦。繁長は上杉軍の先鋒として奮戦した。翌4年(1561年)景虎は小田原城を攻囲。その直後、上杉憲政から上杉名字と関東管領職を譲られ、鶴岡八幡宮で関東管領就任の式を行った。この間、繁長は終始謙信に供奉した。

その後、謙信は越後に帰国するとただちに信濃川中島に兵を進めた。もっとも激戦となった第四次川中島の戦いである。

永禄4年(1561年)9月10日未明、上杉軍は陣容を整えて夜の明けるのを待っていた。本庄繁長・新発田長敦・色部勝長・鮎川清長らの隊は千曲川のほとりに陣を布き、海津城より来るであろう武田軍の別働隊に備えた。

戦いは明け方に始まった。先を制したのは越後軍で、甲州軍の本陣を急襲してこれを破り、倉科まで武田軍を追い詰めた。初戦に勝利した越後軍は川中島で一休みして兵糧を使った。そこへ武田信玄の嫡男・義信が攻め込んできたため越後軍は周章狼狽し、志田義時・大川高重らの諸将が討死した。しかし、本庄繁長・新発田長敦・色部勝長らが駆け付け、謙信は危うく窮地を脱することができた。

このように、数々の戦いで武功をたてるが、自立傾向の強い繁長は、時には味方になったり敵になったりと一貫性がなかった。

永禄11年(1568年)謙信の命を受け長尾藤景・景治兄弟を謀殺するも恩賞がなかったことに不満を抱いた。同年、繁長は武田信玄の要請に応じて上杉氏からの独立を目論み、尾浦城主で大宝寺氏の当主・大宝寺義増と結んで挙兵した。謙信は先に庄内へと兵を進めて義増を降伏させ、孤立した繁長に猛攻を加えた。

上杉軍は繁長の巧みな采配により攻城戦に手間取り、夜襲などで色部勝長や数千に及ぶ死傷者を出すなど損害も大きく戦は長期化したが、翌年繁長は蘆名盛氏の仲介により降伏し、嫡男の千代丸(後の本庄顕長)を人質として差し出すことで帰参を許された。

この乱を通じて、自立性を維持していた揚北衆に対する謙信の統制はさらに強化された。乱後の元亀2年(1571年)8月、謙信は色部氏の忠節を賞して、府内における色部氏の席次を本庄繁長の上に据えた。これによって、鎌倉以来、秩父平氏の宗家たる本庄氏と庶家色部氏の地位は逆転してしまった。

以後、繁長に功名手柄をたてるような機会は与えられなかった。天正3年(1575年)に作成された「上杉氏軍役帳」に繁長の名は見いだせない。さらに天正5年(1577年)の軍役動員名簿である「上杉家家中名字尽」にも繁長の名はない。そこに繁長の名がないことは、謙信から股肱の将として認められていなかったことを示している。謙信治世下に繁長の活躍の舞台はなかったのである。

しかし、謙信に真正面から反抗した繁長の名は広く世間に知れ渡っていて、降服後の不遇もまたよく知られていた。織田信長は伊達輝宗に対し繁長をふたたび謀叛せしめるよう働きかけることを画策したが、さすがに繁長は応じなかった。

天正6年(1578年)謙信の死により発生した御館の乱では、上杉景勝と上杉景虎の両陣営から誘いがあったようだが、自身は吉江資堅に使者を遣わし景勝方に味方する意思を伝達したとされる。また景虎方に付いた鮎川盛長と戦いながら去就を明らかにしておらず家中が分裂状態だった色部家中に介入し騒動を静めている。

一方で嫡男・顕長は大宝寺義氏(義増の子)と共に景虎方についた。繁長は御館が陥落する寸前に景虎から来援を要請されているが応じていない。景勝方の勝利に終わると顕長は廃嫡と引き換えに助命された。その後、繁長は景勝に引き続き仕え、新発田重家討伐では色部長実と共に戦功を挙げている。

内乱での一連の進退によって、繁長は謙信時代に失った信頼を回復し、ふたたび揚北衆の重鎮として活躍することになった。

関ヶ原の戦いが迫った慶長5年(1600年)8月下旬、景勝の命により信夫郡福島城に移り、梁川城の須田長義と共に伊達軍の侵攻に備えた。関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、また最上義光を攻めていた米沢の直江兼続が長谷堂城攻略に失敗し敗退すると、10月6日、片倉景綱・茂庭綱元・屋代景頼らが率いる伊達軍2万が信夫郡の福島城へと攻め込んできた。繁長は伊達軍から福島城を死守し、福島城を守り抜いた繁長の上杉家中における地位はさらに上がることになった。

上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封されたものの、存続を許された。これに伴い繁長も、11,000石から3,300石に石高が減封されたが、引き続き福島城代を務め重臣として家中の再建にあたった。

繁長は「上杉家に鬼神あり」とまで言われた。景勝も繁長を特に優遇し、竹に飛雀の紋所と上杉景信の名跡を継ぐ事を許して上杉一門として遇した。紋所は上杉一門の山浦家以外は本庄家しか許されていない特権である。慶長18年(1614年)12月20日死去。享年74。

上杉景勝は繁長の武勇を称え、「武人八幡」の称号を与えた。墓所は福島県福島市の長楽寺。長楽寺には繁長の木像が安置されており、毎年9月に行われる供養祭には一般公開されている。

★トップ画像:本庄繁長:歌川国芳作の浮世絵。
★背景画像 :繁長の本拠だった本庄城址(現在の村上城址)。

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