石崎監督のゆかりのあるチームを語ろう☆
おもに柏レイソルと大分トリニータ。
もちろん山形・川崎・清水・東京Vも参加OKです。
〜石崎監督とは〜
選手生活の晩年には既にコーチ稼業にも踏み出しており、引退からわずか2年後の1995年に当時JFLであったNEC山形(1996年以降はモンテディオ山形)の監督に就任。全国的に名の通った選手はいなかったが、4シーズンの指揮・指導の結果、10位、8位、5位、とステップアップさせ1998年には優勝争いを繰り広げ、山形をJFL3位にまで押し上げる結果を残した。
サッカー界屈指の若手監督との評価を受け、Jリーグを含む複数チームからのオファーを受けたが、当時山形より下位でJFLを終えて1999年、発足したばかりのJ2に加盟した大分トリニータに招聘され監督就任。新しい環境でチャレンジしたかった事と大分が積極補強を掲げた点が就任理由。新スタジアム完成前、練習環境も整わず、中位予想のチームを優勝争いさせ最終節を前に2位に浮上。勝てば自力で昇格を決めることが出来たが、最終節で奇しくも古巣の山形に引き分けという形で行く手を阻まれ、勝ち点1の差で惜しくも3位にとどまった。(秋天の陽炎参照) 翌年2000年は昇格候補に挙げられ、再び優勝争いに絡んだものの、またも勝ち点1差で3位に終わり(2000年J2最終節参照)、2001年はスタートダッシュに失敗したためシーズン途中で解任される。
しかし同年7月、J2に降格し低迷する川崎フロンターレの監督に就任。リーグ戦こそ7位に終わるもその年の天皇杯では「リストラ選手の活躍」により準決勝まで進出。2002年には川崎を4位に押し上げ、2003年には最終節まで昇格争いに絡みながら、またしても勝ち点1差に泣き3位に終わる(2003年J2第43節・最終節参照)。同年の天皇杯を最後に辞任。しかし我那覇和樹らを育て2006年、優勝争いに躍り出たフロンターレの礎を築いたとして再評価されている。
2004年、清水エスパルスのヘッドコーチとして初めてJ1に関わることとなった。同年7月にはアントニーニョ監督の辞任に伴って監督に昇任、J1で初采配を振るうことになったが、セカンドステージは16位中14位に終わり、チームを立て直すことができず辞任。
2005年には東京ヴェルディ1969のヘッドコーチに就任したが、オズワルド・アルディレス監督が成績不振(前半戦終了次点で17位と低迷)の責任を取って7月19日に解任されたことを受け、3試合ではあるが急遽監督代行に就任した。親善試合では、銀河系軍団レアル・マドリードを3-0で破った。
2006年からはJ2に降格した柏レイソルの監督に就任。「いい選手が皆出て行ってしまった」と漏らしながらも、「残った選手はサッカーに飢えている選手。彼らにいい刺激を与えてあげれば、非常にいいチームになる。」とし、さらには彼の指導を受けた山根巌、岡山一成を獲得し、崩壊しかけたチームを見事再生させる。選手からは「石さん」の愛称で親しまれ、「親父のような存在」として多大な信頼も得た。練習のミニゲーム敗戦チームの選手に一発芸をさせる「罰ゲーム」を名物にし、ファンの心をつかむ。若手の底上げを図りながらチームをよくまとめ、最終節湘南ベルマーレ戦で自身初となるJ1昇格を決めた。
困ったときには