日露戦争の陸戦の英雄が、乃木希典、児玉源太郎であるとすれば、海戦の英雄は東郷平八郎である。第二次世界大戦以前の日本において、最も尊敬された軍人の一人であった。乃木と同様に軍神とあがめられ、東郷神社まで存在する。しかし、戦後教育の現場で東郷の名を聞くことがほとんどなくなった。軍人を英雄視し神格化することは、軍国主義につながるということでタブー視されたからである。今や東郷平八郎の名は、日本人において忘れられつつあるのである。
しかし、東郷の精神とその生き方は、軍国主義とは程遠いところにある。そもそも彼は戦争が嫌いであった。幕末、薩摩(鹿児島県)藩士として多くの戦争に参加し、その悲惨さをいやと言うほど味わった。自分は軍人向きの人間ではない、鉄道技師として国家に奉仕したい。これが若い頃の東郷の夢であった。
東郷は戦争を嫌悪した。残酷無比な戦争の現実を知り抜いていたからだ。部下が次々と死んでいく。そんな戦場の現実に平然としていられるタイプの人間ではなかった。しかし彼は常に国家への忠節、愛国心に溢れる人間でもあった。国家が生きるか死ぬかの瀬戸際での勇気と決断力は今なお語り伝えられている。慈悲の中に勇気があり、冷静沈着でありなお大胆でもあった。東郷平八郎は理想的リーダーとして尊敬されたのである。
ロシアの脅威が現実的なものとなり、日本は国家存亡の危機にある。海軍大臣の山本権兵衛は、連合艦隊の司令長官として東郷を迷いなく選択した。同じ薩摩の出身であったからではない。山本は、日本海軍の歴史の中でこれほど強力な大臣はいないとまで言われた逸材であった。年功序列や薩長の派閥人事を排除し、東郷のリーダーとしての資質を評価してのことであった。
東郷を選んだ山本の判断は間違っていなかった。日露戦争の最大の山場、ロシアのバルチック艦隊との日本海決戦において、それは証明されることになる。1904年10月、当時、世界最強と言われていた、ロシアのバルチック艦隊はフィンランドから日本に向かう1万8千キロの大航海に出発。これを東郷の連合艦隊は日本海で迎え撃った。翌年の5月27日のことである。
この海戦は、連合艦隊の圧倒的な勝利で決着がついた。東郷自身の言葉によれば、「この海戦は戦闘開始30分で決まった。われに天運あり、勝利したのだ」。数字を見れば一目瞭然である。バルチック艦隊の死者1万1千人(日本側発表)に対し、連合艦隊の死者は116名にすぎない。
勝利の決定的な差は士気の差にあったことは間違いない。東郷にとって、日本が消滅するかどうかの戦いであり、命を投げ出す覚悟ができていた。
日本の命運を背負う司令長官東郷の緊迫感は、この戦いに臨む全ての将兵に伝わっていた。「この戦争は国家の安否に関わる決戦であり、諸君と共に粉骨砕身、敵を撃退して天皇の御心を安んじ奉らん」。決戦に際し、艦隊の将兵に語った東郷の言葉である。厳粛にして、決然たるこの言葉は艦内に凛として響き渡り、涙を流す者も多かったという。国家を消滅の危機から守るため、将兵と運命を共にしょうという覚悟が伝わった。
戦闘の間、東郷は敵の砲弾が乱れ飛び、吹きさらしの艦橋に立ち続けた。いくら部下がすすめても、分厚い鋼板で固められた安全な司令塔に入ろうとはしなかった。命の危険に直接さらされている兵士たちと運命を共にしたかったからである。いかに砲弾の雨が降ろうが、艦橋からは絶対に退避しない。東郷はこう堅く誓っていた。全軍の兵士は、波しぶきを受けながら、艦橋で果敢に指揮を執る東郷の姿を見て奮い立った。国家のために命を懸けて戦おうとしている司令長官の姿を見たのである。兵士は東郷と共に戦うことを誇りに思い、彼と共に国家のために命を投げ出そうとしたのであった。
東郷の偉大さは、この海戦においてのみ示されたわけではない。海軍の幹部にのぼりつめても、誰よりも早く起きて素足で甲板を洗い、便所掃除まで行った。暴風雨の時なども、自ら寝ずに警戒に当たったという。部下だけに辛い思いをさせることはなかったのである。
一つの船に乗る海の男は、運命共同体である。連合艦隊は、司令長官東郷を中心として、一糸乱れぬ組織となって戦ったのだ。
東郷のもとで、部下は自らの能力を最大限発揮することができた。東郷は自己を厳しく律しながらも、部下への誠実な態度、思いやりに溢れていたからだ。日本海海戦は、東郷平八郎という一人の偉大なリーダーを日本人の心に刻みつけた戦争でもあった。
自己紹介トピ作りました初めての方ど〜ぞ!
↓
http://
困ったときには