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陸羯南

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詳細 2020年12月23日 22:30更新

陸羯南(くが かつなん、1857年11月30日(安政4年10月14日) - 1907年(明治40年)9月2日)は明治時代の国民主義(民族主義)的ジャーナリスト。本名、中田実(陸実)。津軽藩藩医・中田謙斎の二男。親戚の陸家の名跡を継ぐ。郷里の東奥義塾を経て、宮城師範学校に入学するが、薩摩出身の校長の横暴に抗議、退校処分となる。次いで、司法省法学校に転校。ここでも校長の態度に反発し、退学。ここでの同窓生に、原敬がいる。北海道に渡ってのち再度上京し、フランス語が堪能だったことから太政官書記局員となる。しかし1887年、政府の条約改正・欧化政策に反対して退官。何がなんでも西欧列強に肩を並べたいという政府の方針に対し、日本の伝統に基づいた穏やかな近代化を提唱した。


後に新聞の発行を決意し、「東洋電報」という日刊新聞を創刊,翌年「日本」と改題,社長兼主筆として活躍した。羯南は、国民主義という立場に拠り、社説を担当して国民精神の昂揚につとめた。彼の主張は、その新聞名から「日本主義」とも呼ばれる。官僚主義と藩閥政治の専制を攻撃する彼の社説・評論は論旨明快、多くの読者の支持を得た。「日本」には、いわゆる三面記事はなく、振り仮名抜きの漢文体という硬派の新聞であった。三宅雪嶺、志賀重昂、長谷川如是閑など明治後期を代表する多くの思想家、言論人がこの新聞に集まり、近代ジャーナリズムのさきがけとなった。政府の不正・腐敗を糾弾する激しい論調は、しばしば発行停止処分を招き、その合計、230日にも達したほどだった。このような反骨の政治新聞にも、狭いスペースながら文芸欄があった。ここを拠りどころにして、明治の俳句・短歌の改革を成し遂げたのが、正岡子規である。激痛を伴う結核性カリエスという宿痾をもつ子規に対し、羯南は終生父のごとく接し、俳句・短歌論を励まし、病身を慰た。


おもな著作物に『原政』『近時政論考』『国際論』などがあり、『羯南文録』『羯南文集』には、論文のほか詩歌の類も収録されている。1905年引退、翌々年鎌倉で没した。

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