「宮本武蔵」 諱(いみな=実名)は玄信(げんしん)。新免家は本姓を藤原氏と称し、新免武蔵こと宮本武蔵の正式な名のりは、新免武蔵藤原玄信(しんめん・むさし・ふじわらの・げんしん)。(“平田無二斎の息子”説に従うとまたの名前は、平田武蔵藤原玄信(ひらた・むさし・ふじわらの・げんしん)となる。)
播磨国宮本村(現在の兵庫県高砂市または加古川市)で剣豪新免無二斎(平田無二斎ともいう)の息子として生まれたとする説がもっともよく知られるが、出生地と父の名については異説も多く、美作国宮本村(現在の岡山県英田郡大原町宮本)の生まれとも言い、現在でも論議が続いている。若い頃の事暦について詳しいことはほとんどわからないが、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛と決闘して勝利したと言われる。
29歳の時までに、宝蔵院流槍術の二代目胤舜、京都の吉岡一門、鎖鎌の使い手宍戸梅軒、神道夢想流杖術の祖夢想権之助などを破ったとされるが、虚構と入り混じって確かなことはよくわからない。1612年、巌流島の決闘(船島、山口県下関市)で佐々木小次郎を破って天下無双と評価を受けたとれれているが、それ以降は決闘をしなくなったと言われる。
その後は剣術の追求と思想の確立に努め、1640年に熊本藩に仕官。この地で自身の剣の全てを五輪書という兵法書に残し、まもなく亡くなった。書画にも優れ、武藏の作と伝えられる名品は少なくない。また、亡くなる数日前には、自らのこれまでの人生の生き方を元にした遺訓書「独行道」を著したことでも知られる。
関ヶ原の戦い、大坂の役、島原の乱などの戦役に参加したとも言われる。養子の宮本伊織は譜代大名の小笠原氏に仕え、小倉藩家老となった。
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