平 教盛(大治3年(1128年) - 文治元年3月24日(1185年4月25日))は、平安時代末期の武将。平忠盛の四男。母は藤原家隆の娘。兄に平清盛、経盛、弟に頼盛。妻は藤原資憲の娘。子に通盛、教経、業盛、仲快、源通親室女、藤原成経室女。
保元の乱、平治の乱で兄の清盛に従って戦う。平氏政権の成立とともに栄達し、門脇宰相、門脇中納言と呼ばれた。鹿ケ谷の陰謀事件では娘婿の藤原成経が罪に問われたため、その赦免に奔走した。治承・寿永の乱では主に後方の守りについた。一ノ谷の戦いで嫡男の通盛をはじめとする子どもたちを失う。壇ノ浦の戦いの敗戦の中で兄の経盛とともに入水した。