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渡辺啓介

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詳細 2019年10月3日 17:21更新

渡辺啓助(わたなべ けいすけ、1901年(明治34年)1月10日(1900年末?) - 2002年(平成14年)1月19日)は、日本の推理作家。本名は、渡辺圭介。


渡辺伊太郎・渡辺ツネの次男。画家・渡辺東は娘、推理作家・渡辺温は実弟。秋田県秋田市生まれ。

セメント技師の父の赴任のため、生後まもなく北海道谷好村(現・北斗市)に、次いで1905年東京都深川に、1912年茨城県高鈴村(現・日立市)に転居。

茨城県水戸中学校を経て、1920年青山学院高等部英語師範科入学。
1925年同校を卒業し、群馬県立渋川中学校で英語教員となるが、翌1926年辞職し九州帝国大学法文学部史学科に入学。西洋史を専攻。


大学在学中の1928年、渡辺温とともに江戸川乱歩名義でエドガー・アラン・ポーの短編を翻訳、「ポー、ホフマン集 世界大衆文学全集30」(改造社)に掲載。

1929年、「新青年」の企画「映画俳優による探偵小説競作」に、当時の人気俳優岡田時彦のゴーストライターとして、処女作「義眼(いれめ)のマドンナ」を発表。

1930年大学を卒業し、福岡県八女中学校の歴史教師になる。この頃の教え子に、小島直記、中薗英助がいる。

筆名を渡辺圭介→渡辺啓介→渡辺啓助と変えながら、「新青年」誌に短編を発表。
1935年には第一作品集「地獄横丁」を刊行。
1937年、茨城県立龍ヶ崎高等女学校に転任するが、校風を嫌い翌年辞職し上京、以後創作に専念。


1942年、大日本帝国陸軍報道部の嘱託により美川きよとともに「新青年」から大陸に派遣され、内モンゴルのオルドス地帯などを視察。
この見聞を元にして書かれた作品は3期連続で直木賞候補に推される。


終戦後は家族の疎開先である群馬県渋川町に落ち着き、昭和20年代をほぼこの地で過ごすことになる。
「新青年」や「宝石」「講談雑誌」などに多数の短編を書いたほか、連載長編「東京ゴリラ伝」「悪魔の唇」を手掛けた。

1954年東京に戻る。
1957年には、今日泊亜蘭、矢野徹らとSF同人「おめがクラブ」を設立。
1960年から1963年には、木々高太郎に代わって日本探偵作家クラブ(現・日本推理作家協会)4代目会長を務める。この頃から小説の発表は減り、絵・書や詩作などの表現活動を盛んに行うようになる。

晩年は鴉に材をとり絵筆をふるった。また、文芸サークル「鴉の会」を主宰した。 戦前の「新青年」をはじめとする探偵小説界を知る最後の生き証人であった。


代表作

義眼のマドンナ (新青年、1929年6月号)
地獄横丁 (新青年、1933年4月号)
聖悪魔 (新青年、1937年1月号)
密林の医師 (新青年、1942年6月号)
オルドスの鷹 (新青年、1942年11月号)
西北撮影隊 (新青年、1943年5月号)
魔女物語 (新読物、1946年10月号)
浴室殺人事件 (クラブ、1949年2月号)
鮮血洋燈 (講談社・書き下ろし、1956年)
吸血鬼考 (宝石、1957年7月号)
海・陸・空のなぞ (新潮社・書き下ろし、1958年)
クムラン洞窟 (宝石、1959年2月号)
海底結婚式 (桃源社・書き下ろし、1960年)
探偵横丁下宿人 (小説推理1976年1月号〜1977年12月号)
鴉 誰でも一度は鴉だった (山手書房、1985年)

賞候補歴
直木三十五賞候補 — 「密林の医師」「オルドスの鷹」(1942)
「西北撮影隊(後に「洞窟の女学生」と改題)」(1943)
日本探偵作家クラブ賞候補 — 「血笑島にて」(1957)
「吸血鬼考」(1958)、「寝衣(ネグリジェ)」(1959)ほか




引用元Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%95%93%E5%8A%A9

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