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YS-11 日本初の国産旅客機

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詳細 2023年6月11日 16:37更新

零戦をはじめとする数々の戦闘機を開発し、航空王国と言われた日本。

その伝統は、敗戦によって途絶えた・・・

GHQによる航空機の生産・研究・実験の禁止は7年間続き、技術の伝承はもはや不可能と誰もが思っていた。

戦後、神戸の職業安定所に並ぶ失業者の中に、英字新聞を片手に順番を待つ男がいた。
        
      土井武夫、47歳。まさにその人である。

戦闘機「飛燕」など、日本で最も多くの航空機の設計に関った技術者だった。

日雇いまがいの仕事をしながらも、土井はもう一度空を飛ぶ夢を捨てきれなかった・・・

それから10年の月日が流れ・・・

通産省は、昭和32年に日本人の手による旅客機開発をぶちあげ、プロジェクトチーム「輸送機設計研究協会(輸研)」を結成した。

集まったのは、土井をはじめとする50歳を過ぎた「戦闘機」組と、飛行機に乗ったこともない20代の若き技術者だった。

両者は、はったりまじりの完成模型(モックアップ)を作り上げ、頭から信用しなかった政府から予算を獲得していった。


完成模型(モックアップ)の完成後、本格的な設計に入ったYS−11。

「戦闘機組」と若者の間に立って、実質的に設計を主導した男がいた。

東條英機元首相の次男で、新三菱重工の技術部次長だった

         ”東條輝雄”

欧米とのギャップを熟知していた東條は、「輸研」の設計の誤りを正し、YS−11の試作機を完成させる。

昭和37年、戦争から17年の空白の後、日本の翼が初めて空を飛んだ。

しかし、試作機は横安定性などの問題を抱えていた。

それを克服したのは、あえて東條の部下になり設計に協力し続けた土井武夫と、

東條のもとで鍛えられていった若手技術者だった。

昭和40年、ついにYS−11は就航。誰もが不可能と思っていた航空技術の伝承

は果たされた。

しかし、その伝統はそれ以降、途絶えたままになっている…

”せめてね、10年に一度くらいでもいいから、5年に一度ならなおいい、10年に一度くらいああいうものを作ってね、人をつなげていかなきゃ”

土井武夫

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開設日
2006年8月11日

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カテゴリ
旅行
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