零戦をはじめとする数々の戦闘機を開発し、航空王国と言われた日本。
その伝統は、敗戦によって途絶えた・・・
GHQによる航空機の生産・研究・実験の禁止は7年間続き、技術の伝承はもはや不可能と誰もが思っていた。
戦後、神戸の職業安定所に並ぶ失業者の中に、英字新聞を片手に順番を待つ男がいた。
土井武夫、47歳。まさにその人である。
戦闘機「飛燕」など、日本で最も多くの航空機の設計に関った技術者だった。
日雇いまがいの仕事をしながらも、土井はもう一度空を飛ぶ夢を捨てきれなかった・・・
それから10年の月日が流れ・・・
通産省は、昭和32年に日本人の手による旅客機開発をぶちあげ、プロジェクトチーム「輸送機設計研究協会(輸研)」を結成した。
集まったのは、土井をはじめとする50歳を過ぎた「戦闘機」組と、飛行機に乗ったこともない20代の若き技術者だった。
両者は、はったりまじりの完成模型(モックアップ)を作り上げ、頭から信用しなかった政府から予算を獲得していった。
完成模型(モックアップ)の完成後、本格的な設計に入ったYS−11。
「戦闘機組」と若者の間に立って、実質的に設計を主導した男がいた。
東條英機元首相の次男で、新三菱重工の技術部次長だった
”東條輝雄”
欧米とのギャップを熟知していた東條は、「輸研」の設計の誤りを正し、YS−11の試作機を完成させる。
昭和37年、戦争から17年の空白の後、日本の翼が初めて空を飛んだ。
しかし、試作機は横安定性などの問題を抱えていた。
それを克服したのは、あえて東條の部下になり設計に協力し続けた土井武夫と、
東條のもとで鍛えられていった若手技術者だった。
昭和40年、ついにYS−11は就航。誰もが不可能と思っていた航空技術の伝承
は果たされた。
しかし、その伝統はそれ以降、途絶えたままになっている…
”せめてね、10年に一度くらいでもいいから、5年に一度ならなおいい、10年に一度くらいああいうものを作ってね、人をつなげていかなきゃ”
土井武夫