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スピリチュアリティーの学際研究コミュの前超の虚偽に対する反論

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プラトテレスさんから難しいお題を振られてしまいました。
プレパーソナルとトランスパーソナルの線引きです。

ウイルバーは、これを自我の成熟度で区別しています。自我確立以前の幼児の体験する、自他未分化な一体感、幸せな時代。お花やぬいぐるみにもはなしかけるようなアニミズム的世界観。これをプレパーソナルと呼んでおり、ユングの態度はこれをトランスパーソナルと混同していると批判しています。

トランスパーソナルは論理・客観・科学的思考を身につけ、自我を確立した、つまり自他をはっきり区別した個人がさらに発達させた意識状態であるとしています。
宇宙との一体感やつながりを実感するのですが、科学や懐疑主義を経て到達しているから、プレパーソナルなものとは違うといい、目指すべきはこの、トランスパーソナルだと主張しています。

列クン
これでよかったでしょうかね・・・

私自身は、この分類に少し疑問があります。

スピリチュアリティータイプを自我成熟度で分類して良い悪いを言うのは、西洋個人主義的世界観からの発想ですよね。

ウイルバーお得意のホラーキーで説明すると、トランスパーソナルなレベルはプレパーソナルもパーソナルも含んで超えるというわけで、階層性はあるけどどれも大切だということになりますけれど。ちょっと読んだだけでは、幼児的発想は未熟で、そこから発達していかなければならないという、スピリチュアリティーの発達論がうかがえます。

それに対して、アームストロングはトランスパーソナル発達心理学として、発達には二つの道筋があるといいます。上から降りてくる魂の発達としたから上昇してくる肉体・心理的発達です。この理論で子どもの示す高いスピリチュアリティを説明しています。

私は経験的にアームストロングの理論のほうが納得しやすいです。が、これは突き詰めると生まれ変わりを前提とした発想になって行くような気もします。
そうなってくると科学的に未検証な分野での議論になってしまうので、これ以上はなんともいえません。

自我の確立は確かに目標とされるべき発達段階だと思いますけれど、自我(エゴ)の働きによる不健康なスピリチュアリティ自我肥大に関しても、アサジョーリをはじめ多くの学者が指摘しています。

幼児の自己中心性はピアジェが証明したような認知機能の未熟性によるものであり、自我肥大した自己中心性とは別物であると考えています。したがって、同じように見える自己中心的な世界観も内実はまったく異なっている、同じように扱うのは間違いであると都考えます。

ううん、いいじゃないか!
我ながら納得。
ウイルバー研究会のコミュにも投稿しようかな〜
ウイルバーオタクにたたかれそうだな〜
トラパ研究会コミュだったらいいかな〜
ううううううん。やめとこ。
先行研究とか当たって理論武装しないと認めてくれない世界みたいだから。
だれか、やって。笑

コメント(13)

さっそくのトピ立てありがとう御座います。
このテーマは、私も考えをもっているわけでもなく、情報収集と、ディスカッションを通じて、知りたいと思っています。


さて、まずこの議論を始めるにあたっていくつかの定義を話して行きたいと思います。

前/超の虚偽とは:前を超に格上げして混同すること。または、超を前に格下げして混同すること。

それぞれの錯誤において、発生する問題は。
1)全てを合理的に考え、他を排除してしまう。
2)全ては霊的に還元できるという世界観で閉じる。

この両方は、互いに間違いである。

ーという定義でいいでしょうか?



プラトテレスさん
ありがとう

この件について、以前列クンと話したことがあります。
彼誘ってみますね。
 ■前/超の虚偽について、おおまかに、まなみんさんやプラトテレスさんのご理解で問題はないと思います。
 つけ加えることがあるとすれば、これは知的なトピックというより、心理臨床の実践や霊的実践に関わる問題で、モデルや知的操作だけで提起された問題ではないだろうと思います。

 ■まず、ウィルバーにおいて自我(ego)とは、外界や、衝動や、社会的な役割から差異化された合理的で主体的な自己のことを意味します。これはとても狭い意味ですが、用語の混乱を避けるために意図的に用いられています。プレパーソナル→パーソナル→トランスパーソナルの発達段階が彼にとって重要であるのは、自我の発達がその明確な指標となると考えられたからです。プレパーソナルは自我が未成熟な段階で、これと自我を超越しかつ包括するトランスパーソナル段階とを区別することによって、フロイト的なトランスパーソナルのプレパーソナルへの引き下げや、ユング的なプレパーソナルのトランスパーソナルの引き上げという前/超の虚偽の2つのパターンを回避できると考えたわけです。もちろん、この2つはプラトテレスさんが指摘されているような世界観上の帰結をもたらす可能性があります。

 ■さて、しかしながら、まなみんんが指摘されるように、この前/超の虚偽が、ピアジェによる認知の成熟というものを基盤としたモデルであることには問題があります。アームストロングが論じているように、発達には下からの肉体的・心理的発達と、上からの魂の発達があるからです。そうすると、たとえば沖縄のカミダーリのようなシャーマンの召命体験は魂の急激な肉体・心理への「発現」として神経症的なプレパーソナルな「病」とは区別されるでしょうし、仏教などで戒められている瞑想過程における超能力獲得による自我肥大は、むしろ魂の力が過剰に認知機能に流入する事態として、やはり心理的な疾患とは区別されるでしょう。これらはまた、アサジオリやグロフにも見られる視点です。

 ■私見では、ウィルバーによる前/超の虚偽の提唱は、心理学的な知識も用いた現代的な審神(さにわ)のことで、きわめて有効であると言えます。審神とは、ある霊的現象が自身の身に起こった場合、それが真に高次の次元の霊的な現象なのか、低次な人間的な衝動や動物的な意識の発現なのか判別することですから、一つの霊的な「診断」といえますし、またインドでは同様のことを識別(viveka)と呼んでいます。

 ■ところで、幼児の自己中心性についてですが、まなみんさんの指摘されているように「認知機能の未成熟」については、ピアジェを基盤としたウィルバーも述べていることであり、別にウィルバーの指摘と矛盾していないと思います。幼児も霊的な存在ですが、まだそのことに自身で気づいていないということに、ウィルバーの理解ではなると思います。ここに疑義をさしはさむ場合、「自我機能」の再定義が必要になるのではないでしょうか。私見では、ウィルバーは輪廻について明確な立場をとっていませんが、輪廻を認める場合はアームストロングのモデルに近づき、認知機能は多様な心理的ラインの一つとなり、発達の重心としてのレヴェル(主体としての自我)とは区別されてくると思います。哲学的には、あることが知られることと、その認識主体が「私」であるとわかることとは異なるとも言えます。前者は認知機能で、後者はそれに反省が伴った判断であって、内省による作用主体の同定です。したがって、認知機能が未成熟でも魂の降下や霊的体験は起こりえるし、それは成長=発達としての重心の上昇(プレ→トランス)と平行する事態として捉える事もできるのではないでしょうか。
 要するに、ウィルバーの前/超の虚偽論を含めつつ、モデルを複線化し、立体化するということです。

 ■また、「自我肥大した自己中心性」は、ユングも指摘している自我の膨張のことで、これは先にも述べた魂の力の過剰な流入のことです。潜在的な未来の無意識=魂としての他者からの力を自己(自我)のものと誤認することと言ってよいと思います。これは作用主体の同定がないと起こらない事です。
 幼児の自己中心性は、認知機能と作用主体(認知の担い手としての「私」)の同定がなされる以前のありかただと思います。

■最近、時間もないために纏めてコメントさしていただくことになりましたが、皆さんの討論にとってなんらかの先へ進む為の素材になればと思っています。それでは、失礼致します。
図左:スピリチュアル+現代心理学=トランスパーソナル心理学(諸富教授による放送大学の教材から)

図中:プレパーソナル→パーソナル→トランスパーソナルの図
   (青色の文字は私が追加してます。)
パーソナルを経てトランスパーソナルにいたるという図。
「前」とは、下3段階、「超」とは、上3段階。


図左と図中はどっちも合っていると思います。
では、どこで、前超は錯誤されるのか?
図右:
「スピリチュアル+現代心理学=トランスパーソナル心理学」の式に前と超をそのまま代入しているから錯誤を起こしている。
これは、等式になりませんね。なぜなら、「前」は、発達過程で、「一部分」は消さなければならないからです。

「含んで越える」とは言葉ではありますが、許されないものもあり、やはりそれは、捨てねばなりません。
スピリチュアルの全否定ということでは有りません。
スピリチュアルは何処の段階にでもあると思います。
A:「前」的スピリチュアル:呪術的、カルト、戒律階級による奴隷とか

B:近代理性のみで語れるスピリチュアル

C:「超」にいたって、気づくスピリチュアル

Aの「前」は捨てるべきスピリチュアル、BとCは、育てるべきスピリチュアル と思います。


如何でしょうか?
 「捨てるべきスピリチュアルもある」という結論には賛成です。ただし、トランスパーソナル心理学において「捨てる」とはどういった意味かということが問われる必要があります。
 私見では、これはヘーゲル的な意味での「捨てる」になります。つまり先行する心理構造における部分性や固着や逸脱といった要素は、弁証法的に、より包括的な「含んで超える」という文脈から捨て去られることになります。
 ご指摘のように呪術的心性やカルトに代表されるような権威主義的な体制、他律的な規範に過剰に自己同一化すること(戒律階級の奴隷とは、こうした意味だととりました)は、その「部分性」と「逸脱性」ゆえに捨て去られ、個・集団の成長・発達の中に再び位置つけられるものです。たとえば、呪術段階や社会的小集団の規範の遵守(社会中心的合理性)は、人間の発達段階としては正常に認められるものですが、その段階に固着することは病理を引き起こすわけで、異常な階層を正常な階層に戻すということが、心理療法や民主的な社会政策の基盤になるわけです。

 等式でいえば現代心理学(プレパーソナル+パーソナル)+スピリチュアリティ(トランスパーソナル)=トランスパーソナル心理学です。スピリチュアルな働きは現代心理学においてでさえ部分的には説かれているものでしたが、それと名指さされていたわけではありませんし、発達段階論としても、プレパーソナルな段階における発現は部分的なものです(よって、より高次の構造に超えて含まれる)。

 なお、心理臨床的な観点とは別に、世間一般で前/超の虚偽があり、いわゆる「スピリチュアル」が流行する背景には、一般には不可視なものが「見える」ということを特権化するという構造もからんでいるように思えます。これは近代社会において、「霊」や「もののけ」やそれ意外の超感覚的知覚の開示内容という、それ自体は伝統的には人間の「心理」の外部と考えられていたものが、内部に折り曲げられ「心霊」として捉えられるようになった屈折した心理主義=オカルティズムとも関係しているような気がします。

 別に妖怪が見えたからといって、それは心理的発達の一過程であっても、その成熟がそれによって測られるわけではありませんからね(笑) そうしたものへの過度な固着は「魔境」であるという禅における識別や、それが皆に恩恵をもたらさない限り幻影であるという先住民文化の判断も意外とーというか、心理学的洞察としてー健全であると思います。

 前/超の虚偽については、心理臨床の見地や心理学的モデルの問題だけではなく、現代文化の批評においても有意義な観点だと思います。ただし、この2つの観点は立て分けて論じた上で、2つを重ねてみることが有効なのではないでしょうか。私の感じでは、まなみんさんは心理臨床の立場からこの問題を論じていて、プラトテレスさんはもっぱら批評的な観点から論じているように見えるのですが、いかがでしょう。私は、そのどちらも有意義だと考えるものですが。
甲田列 さん

丁寧な説明ありがとう御座います。

?ヘーゲル:なるほど。私的には「含んで捨てる」と覚えておくことにします。


?「呪術段階も発達段階としては正常に認められる」同感です。絶対的誤謬ではなく、その時は、必要だったもの。ただ次の成長段階で捨てることが必要。

?なるほど!「現代心理学(プレパーソナル+パーソナル)+スピリチュアリティ(トランスパーソナル)=トランスパーソナル心理学」理解しました。


?今回、前と超の線についてお二人の示唆で、よく考えることができました。ありがとう御座います。
整理されてきた結果、もう一種混同しやすい重要な線が見えてきました。
捨てるべきスピリチュアル|育てるべきスピリチュアルの区分線です。
わたしが「線はどこに?」という意味は、これを説いたかったのだと整理することができました。
狭い範疇倒錯の回避方法とでもいいましょうか。

?ウィルバー、ピアジェ的に直線的成長モデルの場合:
単純に「前」=捨てるべきものとはならないでしょう。
しかし、捨てるものは、この中に多く含まれてます。


?アームストロング的に「上から」の場合だと前・超の錯誤は発生しないということではないですよね?
 同様に、全ては「上から来た」としてしまっては、やはり同様に錯誤は発生すると思います。 
(個人的には、脳な中で今までにない組み合わせが起こっただけと思います。)
ヒトラーも彼自身の主観では、心底「上からお告げがあった」と思っていたかもしれません。


ーということは、捨てる下限の線と受け入れない上限の線の2本が必要だとわかりました。

しかし、どうやって線をひきましょうか?
ああ・・・よけい難題になってしまった・・・


PS
?私は心理臨床の立場とは、違う位置でしょう。ご指摘のとおり、現代文化への批評的立場で、前/超の虚偽の有意義性を考えているところです。両方に有意義のご意見に対し、異論はありません。
いわゆる「スピリチュアル」には、辟易です。なんでもかんでも背後霊ですからね。最近ではスピリチュアルという言葉は胡散臭さをまとってしまったので、もうほとんど言葉としての意味の独立性を保持できていません。区分整理し言葉を分ける必要があると思います。その際、前/超の虚偽は有意義な観点と思います。プレパ・スピリチュアル→モダンスピリチュアル→トラパ・スピリチュアルとか。これは、専門家から発信して欲しいな・・・
おっと脱線。この?は、別トピを立てた時に置いといて、?までを語りましょう。
ああっと!そうか!そうか!まなみんさんのほら!例のアレ使えばいいじゃん。

捨てるべきスピリチュアルは・・・グリーンの扇型ですね。
「baS:危険なスピリチュアティーカルト」

残すスピリチュアルは、水色と黄色(白モチロン)

構造的には、これでいいですよね。

この図のそれぞれの部分に「言葉や行動、体験」を書き込めば答えが出そうです。

しかし、論理的方法と、いえるか〜?なんか直観的KJ法みたいですね。みな乗せる言葉が違くなりそう。

論理的に「言葉や行動、体験」を乗せていく方法はないものか?
とりあえず、やってみよっと。
みなさんの議論、興味深いのですが、たとえば

「捨てるべき」

という言葉は、価値観を含む表現であって、
価値観は常に相対的なものだという原則にたつと、
その意味するところがわかりかねます。

「捨てるべきスピリチュアル」

というのは、どういう意味で使われているのでしょうか。

トランスパーソナル心理学で目指しているものは、
近代合理主義を含んで超える
(ある種の新たな)合理性の模索だと
僕は理解しておりまして、

その立場から想像するに
「捨てるべきスピリチュアル」というのは
そうした高次の合理性に見合わないものというか、
そうした高次の合理性に照らしたときに
 非合理と判断されるもの、とでもいう理解でいいのですかね。
ふたこさんの理解、いいですね。
私もちょっと言葉に引っかかってました。
来月のセミナー期待しています!!
文字置きのワーク失敗しました。

人の置かれた環境で、言葉の意味は変わってしまいますね。
原爆ドームに行った時、子供が焼け焦げ、自分も皮膚がドロドロになって祈っている母の図思い出しました。
こういう時仏神にすがる人に信仰を否定しても、なんの意味もなさないですね。
平時において、仏神に「のみ」に頼るのは、エラー。
不遇時において、仏神に頼っても、エラーではない。
そこから社会や回りに極端な実害を与えてはいけませんが。





誰の言葉か忘れましたが、「知においてすら、時と場をわきまえねばならない」というのがありました。
知を追求する態度と、偽を許容する場を混同しては、ならないですね。
それだけのことと解釈すればいいですね。

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